鹿児島・大隅地方に、新羅の花郎(ファラン)があった。「花郎」を奉じる新羅の青年集会と「稚児様」を奉じる大隅の兵児二才(へこにせ)の集会が、酷似しているからである。

 花郎とは、青年貴族集会の指導者のこと。15、16歳の若者を花郎徒とした集まり。道義によって結ばれた、選ばれた若者で、平時は歌学や遊楽を通じて心身の修養に励んだ。戦時には戦士団として戦いの先頭に立った。

 一方、兵児二才は、氏族の子弟のうち数え年14歳から20歳までの男子をさし、稚児様(花郎に相当)を奉じて心身の鍛錬を重ね、戦時にその先頭にたった。


 心身鍛錬の一環として、山野へ分け入る。花郎徒は金剛山に上る。兵児二才にも登山があり、霧島を目指す。似ているのは、集団の指導者、花郎と稚児様の出で立ち。ともに美服をまとい、薄化粧をする。花郎は当初、女性がその役を担っていた。女の花郎を朝鮮の史書『三国史記』には「源花」と書いている。

 兵児二才は、国分兵児、出水兵児として鹿児島各地に拡がる。蒲生では「執持(とりもち)稚児」と呼び、隼人でも「トリモチ稚児」といった。 

 

 この研究のさきがけとして、三品彰英の「花郎の本質とその機能」「薩摩の兵児二才制度」がある。その中で、花郎の奉じる男子集会の特徴として、次の点をあげている。4点のうち2点だけを紹介したい。

  ○青年が国家的・社会的教育を受ける集会であったこと。

  ○花郎は神霊と交融する祭儀を行ったこと。

 「神霊と交融」とは、意外であった。それほど、大きな使命を持つ集団という意味なのであろうか。


 どうして、新羅の花郎のごとき風習が、大隅にあるのか。古代、豊の国にあった伽耶・新羅の渡来人で形成された「秦王国」が、大隅隼人の反乱(720年)を治めるために派遣され、それを契機に移住したためではないかと、歴史研究者は謎解きをしている。

 『続日本紀』和同7年3月15日条にこうある。

 「隼人は、昏荒野心にして未だ憲法(のり)に習はず。因りて豊前国の民二百戸を映して、相勧め導(すす)め導かしむ」


 平安中期の漢和辞書「和名抄」には、大隅国桑原郡に「豊国」郷があると記す。確かに桑原郡には、大分郷など豊前の地名をとった郷がある。なかには、豊国郷もあり、ここには大隅八幡宮(現在、鹿児島神社という)がある。

 豊の国と大隅地方は、隼人の乱以降、結ばれている。


 こんな話を聞いた。秀吉の朝鮮侵略の折、島津藩の兵児二才たちは釜山上陸後、「稚児様」を報じ、戦いの先頭にたって朝鮮軍と戦った。「なんとも歴史の皮肉。兵児二才は、秦王国の流れをくむ朝鮮系渡来人の末裔でしょう」。その先は言わなかったが、同族同士が戦ったということをいいたらしかった。