慶尚南道・蔚山(ウルサン)の郊外、海岸を見下ろす丘に母と子の銅像が立っていた。新羅時代、日本に渡った夫の帰りを待つ家族を描いている。そこから望める嶺に想夫石があるという。そう説明してくれた元外交官は、「韓国には、このような想夫石が方々にあります」という。これは何を表すかというと、忘れがたい情緒、すなわち未練が深い民族性を象徴するシンボル。かつて一緒に旅した韓国の元外交官が歴史の悲話を話してくれた。 

 元外交官が指差す方向にある、鵄述(チスル)嶺。標高850メートル。慶州から蔚山へ越えていく峠にある。この峠から日本海が望める。この嶺の頂上に、なぜ望夫石があるのか。日本へ行った夫を待つ妻が、毎日この嶺に登って立ち、夫の帰りを待ち望んだ。しかし、帰って来ない。待ちあぐねた妻は、石になってしまう。これを想夫石という。

 新羅時代、第19代王・訥祇(ヌルチ)王の頃の話。日本で人質の身となっている弟に会いたい王は、弟を救出する秘策を考えだし、忠臣の朴堤上(パクジェサン)を派遣する。彼には若い妻と3人の娘がいたが、家族には日本行を告げずに港に向かう。残された妻娘はそれを知り、港に向かうが、船はすでに遠く、水平線上の彼方にいた。

 

日本に渡った朴堤上は、奇策を用いて国王の弟を救出するが、自分は捕えられて拷問を受け、さらには島流しにされて、そこで火あぶりの刑に処せられ亡くなってしまう。                 

夫の身に起きた不幸は、妻の耳にも入るが、彼女はそれを信じず、夫の帰りを信じて、述嶺に草庵をたてて起居しながら、夫の帰りを待つ。いつまでも待つ続けた彼女は、想夫石になり果ててしまう。 

国王は、この石に「述神母(チスルシンモ)」という神格を与え、御堂を立てて祭祀を行ったという。


「都はるみの歌に『北の宿』、ありますね。未練がましい女心を歌っています。韓国人は、その未練では日本人以上でしょうね。忘れように、忘れられない。忘れるべきだと頭でわかっていながらも、感情にひきずられる愚かさ。韓国人が情に深いといわれる所以は、ここにもあります」。この元外交官の話は、蔚山の想夫石とともに、深く記憶に刻まれている。日本のお盆に、3年前に亡くなった元外交官を偲んだ。