昨日書いた「没後30年 司馬文学」について、読者から質問があった。「司馬遼太郎が描く対馬から学べることは何でしょうか」、と。国境の島で、司馬は「朝鮮(との関係)を考えた」と私は書いたが、短い文章であるため、その点がよく説明されていなかった。
質問について、その回答をひと言でいえば、国境の島の悲哀あろう。
司馬は対馬を縦断する過程で、対馬の所属をめぐって、歴史をひもとく。李承晩(イスンマン)大統領がいった「対馬は朝鮮領」という言葉から、対馬に残る告身(辞令)、通信使の製述官・申維翰(シンユハン)がいった「この島は朝鮮の一州にすぎない」を紹介して、対馬の地勢的位置、経済などに思いを馳せているが、これが最大のポイントではないか。
『街道をゆく 壱岐・対馬の道』は、文庫本の初版が1985年になっている。週刊朝日で連載された、この「壱岐・対馬の道」は、その年より数年前に執筆されている。
対馬藩の外交官であり儒者の雨森芳洲は1900年、来日した盧泰愚(ノテウ)大統領が宮中晩さん会答礼でスピーチしたなかに出てくる。日韓交流に尽くした人物として。脚光を浴びるのは、そこからである。
芳洲が2度江戸まで案内した朝鮮通信使も、これに伴い浮上し、通信使ゆかりのまちでは通信使を活かした地域起こしが盛んになった。
それなのに、司馬は15年余り前に、芳洲と通信使を紹介していた。おそらく鄭貴文・詔文兄弟が始めた『日本のなかの朝鮮文化』で、通信使を語る研究者(たとえば李進煕、姜在彦両氏とか)の話が、参考になっているのは間違いない。
これ自体、埋もれた日韓交流史を知る上で、読者にとっては大きなことであった。
次の話も意外である。
「徳川時代、この佐須奈は開港場であった。鎖国体制下にあって、長崎が唯一の開港場であったことは、世界に知られている。ところが佐須奈もそうであったことは知られておらず、日本史の教科書も黙殺している」
この次に続く言葉が、国境の島・対馬の悲哀を端的に物語っている。「対馬宗氏は、李氏朝鮮国に寄生していたといっていい」
『街道をゆく 壱岐・対馬の道』は、対馬の歴史を知るにいい本である。