なぜ、こうも暴君として名を遺した朝鮮王朝第15代王・光海君がドラマに取り上げられるのであろうか。一説によると、彼の生涯が波乱万丈で描くのに好材料であること、「暴君」にもなり「聖君」にもなる複雑な人間性が大きな魅力という。かつて「暴君」として描かれた光海君が、最近では「人間的な王」「悲運の王」として描かれる。

 

 光海君は、身内を次々と粛清した暴君、「仁祖反正(インジョパンジョン)」で玉座を追われた国王という印象が強い。だが、彼は戦乱という国難の先頭に立って戦った世子という記述が、『王朝実録』にある。

 

 1592年、秀吉軍の侵攻が発生した。嫡男がおらず、長年世子冊封を避けていた宣祖だが、幼い頃から品行方正で学問に篤実な次男の琿(光海君)を急きょ世子に指名(冊封)し、分朝(臨時朝廷)を設けた。

 光海君は、都を捨てて義州に逃れた父王に代わり、各地を回って民を励まし、義勇兵を慰労した。その一方で、自らも戦場に立ち、明と連合して、平壌奪還でも活躍するなど、民や重臣たちの心をつかんでいく。

 

 ところが、庶子であること、嫡子・永昌大君(ヨンチャンテグン)の誕生に伴う宣祖の思惑や、党派闘争に翻弄され、16年間、非公認の世子という不安定な立場に悩まされた。

 

 光海君は戦時中、王世子に冊封されていたが、中国・明ではこれを認めていなかった。長男の臨海君(イメグン)がいるのに、どうして弟の光海君を王世子に立てるのかというのがその理由である。当時、明の神宗・万暦帝は次男の福王・朱常洵を寵愛し、長男の泰昌帝の帝位を譲る意思がなかった。そんなこともあって、明の礼部では泰昌帝のことをおもんばかって、朝鮮の王世子冊封でも、おいそれと認めようとしなかった。

 

 1602年、仁穆王后(インモクワンフ)が宣祖の継妃になると、光海君の立場は少しずつ変わる。1606年、仁穆王后が永昌大君を産むと、状況は一変した。宣祖が、あれほど念願していた嫡子が生まれたのである。宣祖は、永昌大君を王位継承者にしようという様子を見せ始めた。

 

 一部の機転の早い臣下たちは、そうした宣祖の胸中を察して、徐々に永昌大君を擁立する動きを見せた。それに宣祖は領議政・柳永慶をはじめとする何人かの臣下たちを集めては、公然と「永昌大君のことを頼む」と言い始めた。

永昌大君を指示する小北派は、光海君が庶子の上、次男であり、明からの誥命を受けていないという理由で世子として認めないという姿勢を見せた。

 しかし、あいにく宣祖が持病を悪化させて、死境をさまよう重体に陥ると、現実的な判断に基づいて、光海君への禅位教書を下さざるを得なかった。

 

 宣祖が急死して、光海君が即位。彼は聡明な君主として、徳寿宮など都の復旧につとめ、税制改革も実施するなど、手腕を発揮した。しかし、政権を握った大北派にそそのかされて、徹底的な粛清を行った。

 暴君という評価は、ここに起因する。兄の臨海君を流刑に処し、世継ぎの座を狙う異母弟の永昌大君を追放して、謀殺。永昌大君の母・仁穆王后を幽閉した。

 

 これに対して、敵対する西人派は猛反発。光海君の甥・綾陽君(ヌンヤングン、後の国王・仁祖)を担いで、クーデター「仁祖反正(インジョパンジョン)」を起こし、光海君は失脚、流刑の身となった。1641年、66歳で死去している。