4月9~14日まで福岡アジア美術館で『現代韓国「民画」展、並びに韓国画展』を主催者として開催する忙しい時期であるが、2カ月ごとに実施している「九州のなかの韓国文化」探訪も行うことにした。
第10回目となる今回は、福岡都市圏を巡る。行程は以下の通りである。
奴国の丘歴史資料館→須玖(すぐ)岡本遺跡→金龍寺・貝原益軒(かいばら・えっけん)の墓、浄満寺・亀井南冥(かめい・なんめい)の墓→鴻臚館(こうろかん)跡展示館→節信院・子安観音像
※最後に訪れる節信院には、閔妃(明成皇后)暗殺事件に関わった玄洋社社員の藤勝顕が罪滅ぼしのために造らせたのが子安観音像である。知る人はほとんどいないであろう。
この行程のなかで、金龍寺を訪ねた折、朝鮮地蔵と貝原益軒について詳しく話したいと考えている。少し概略を試みたい。
秀吉の朝鮮侵略の折、黒田長政配下の武将、林家の先祖・掃部(かもん)直利が連れ帰った妙清の石造を見て欲しい。「朝鮮地蔵」という。福岡市中央区今川2丁目の金龍寺の一角に立っている。石に刻まれた碑文には、8、9歳の少女が泣いて命請いするので、哀れと思い、掃部が連れ帰る。肉親や親戚と生き別れになったのか、消息が分からない。恐らく、周辺にそれらしき姿が見あたらなかったのであろう。少女にはサトという名前を付けて、福岡に来てからは、使用人となった。
掃部亡き後、サトは髪をおろして尼になり、妙清と称して、主の墓を守り、石仏も立てて供養したという。妙清の石造は、望郷の思い深い関係から、朝鮮の方角を向いて建てられているいという。
興味深いのはこの寺には福岡藩の儒学者であり、本草学者である貝原益軒の墓があること。「腹八分」などの『養生訓』で知られる益軒は、朝鮮通信使が寄港した相島を訪ねて、交歓した。
大通りをはさみ、金龍寺の斜め真向かいにある浄満寺には、医者で儒学者であった亀井南冥の墓がある。南冥も相島に渡り、通信使に自身の若かりし日につくった漢詩文集をみてもらい、彼らに絶賛された。南冥の漢詩文の才能に感じ入った通信使は、南冥の名を行く先々で広めた。