三国時代、百済の都であった忠清南道の公州には度々訪れ、公州大学の尹ヨンヒョク教授(現在、名誉教授)にお世話になった。公州には百済中興の祖、武寧王陵があり、そのなかの墓碑銘から武寧王が玄界灘に浮かぶ加唐島(佐賀県唐津市)で生まれたという由来が刻まれていた。

 公州に、武寧王ネットワーク協議会があり、毎年6月、加唐島での武寧王生誕祭に参加している。迎える地元にも同様の協議会があり、今年は会長の宮崎卓氏が経営する「愛郷ファーム」で前日歓迎会があると友人から知らせがあった。

 武寧王生誕祭は6月6日にある。渡船で加唐島に渡り、生誕祭式典、加唐小中学校の体育館で歓迎会並びに交流会が行われる。

 公州の協議会会長は尹ヨンヒョク氏(公州大名誉教授)。高麗時代、朝鮮半島に侵攻したモンゴル軍と戦い、済州島で殲滅した三別抄の研究で知られる研究者である。筑波大大学院で博士号を取得した関係で、日本語が流暢で、公州大大学院で日本語を深く学んだ夫人とともに、日本渡航の先導役を務めている。

 

 かつて尹ヨンヒョク氏からいただいた『軽部慈恩の百済研究』という著書は興味深い。

 植民地時代、この地方の学校教師になった軽部慈恩は盛んに古墳を盗掘していた。百済史を研究する傍らの、盗掘だったたらしい。目に余る行為のため、総督府も警告を出すほどだった。敗戦後、慈恩は盗掘品を持ち帰る。それを生かして、続けていた百済考古学の研究を深め、それをもって大学で教えはじめた。

 尹教授が、この人物についてまとめたのが、『軽部慈恩の百済研究』である。学問研究とは何か。盗掘まで許されるものか。この本を読みながら、そんな感慨をいだいた。

 

 日韓関係史で、朝鮮が日本から甚大な被害を受けた歴史は、倭寇、秀吉の朝鮮侵略、植民地時代である。

 盗掘でいうと、秀吉の朝鮮侵略の折、都のあった王陵が荒らされたことがあった。その行為は死罪にも相当する。関ケ原の戦いで天下を統一した家康は対馬藩を通じて、断絶された国交修復、、朝鮮通信使派遣を朝鮮政府に要請した。そのとき、これに受け入れるに当たり、先に日本側が国書を提出することと、王陵を荒らした犯人を差し出すという条件を、朝鮮政府は出している。

  王陵を荒らす行為は、それほどの朝鮮の怒りを買った。国王の墓であるからして、当然のことである。

 

 敗戦後、軽部慈恩は日本大学三島校で、教官を務め、盗掘資料ももとにして百済研究を深化させ、研究者として評価される存在となる。彼が公州で何をやったか。それを知る研究者は当時、日本では稀だったのではないか。尹ヨンヒョク氏の『軽部慈恩の百済研究』は、人間の良心を問う告発の書でもある。