この15年、韓流ツアーを企画して、地方をよく見て回った。陶器の里・利川(イチョン)で、リンゴの産地・大邱(テグ)で、ワイントンネルの清道(チョンド)で、ある日本人の名前を聞いた。浅川巧である。山梨県出身の農林技師。植民地時代、朝鮮に渡り、総督府の技師として勤め、朝鮮の陶磁器、木工の美しさを広く伝えた。このことは知っていたが、「特産品づくりの一村一品を、各地に植え付けたことで感謝されています」と現地ガイドに聞き、心が熱くなった。
台湾にも、台湾に尽くした日本人がいる。八田與一(はった・よいち)という。彼のことを、誰に聞いたか。福岡市内、桜坂にある台湾経済文化弁事処福岡分処の所長が教えてくれた。太宰府に九州国立博物館ができるころ、これを応援する学術雑誌に巻頭言を書いてもらうため、何回か通った。所長は黄さんといっていた。八田與一のことを語ってくれた。
八田與一は東京帝大工科大学土木科を卒業後、台湾総督府土木局に勤め、土木技師として治山治水に貢献した。八田が台湾人に知られているのは、平野を美田にしようと、貯水用のダムをつくり、大規模な水利工事を行い、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼ばれる水利構造をつくったことである。嘉南平野を縦横にめぐる水路は1万6千キロに及ぶ。いわゆる水の長城である。
完成したダムは当時、東洋一の規模。烏山頭ダム(水庫)という。烏山嶺をくりぬいて、3078mのトンネルをつくり、曾文渓から水を引いた。この工事で、多くの死者がでた。殉工碑をつくり、祭っている。
台湾総督府が年間予算の半分を投入して行った、この工事は1920年から10年の歳月を費やして、完成する。巨大なプロジェクトである。その間、八田は粗末な家に住み、夫人は8人の子を育てた。
烏山頭の村は、工事に伴い姿を変える。工事には当時の最先端の技術、機械が投入され、道路、鉄道などの整備はもとより、病院や小学校までできている。
台湾に尽くした八田の末路は、哀れだった。陸軍に徴用され、フィリピンに向かう途中、乗った船が米国の潜水艦に撃沈され、八田は亡くなった。56歳だった。夫人は3年後に、後追いする。烏山頭ダムに身を投げて、自死した。
二人の墓が、珊瑚潭のほとりに立っている。與一の命日である5月8日には、地元の水利会の人々によって、墓前祭が営まれているという。