唐津(佐賀県)の名護屋から呼子へ向かい、町へと降りずに加部島へ渡った。「島を一周しましょう。島最北端からの景色がいいですよ」と友人は行って、走り慣れた道へと入っていく。300段は超えるのだろうか、田島神社の海へと降りていく見事は石段を対岸から眺め、いよいよ最北端へ。辿り着いた岬は緑鮮やかな草原といった感じで、放牧された牛が数頭いたが、猛暑を避けて、屋根部屋で体を休めている。

 

 岬から島は近く、人家の様子も見て取れる。「頭文字を並べるとマカオの島々ですよ。左から松島、加唐(かから)島、小川島です」と友人。彼のジョークとユーモアある話で、道中、笑いが絶えない。

 小川島を初めて身近に見た。江戸後期、捕鯨を見物するため、多久領の草場珮川が漢詩『観捕鯨行』を書いているので、「あの島か」と興味を持ってみた。3つの島で、一番に起伏の少ない、左右に長いのが小川島である。

 

 江戸時代、小川島で鯨捕りを観察して、その感動を詠んだ草場珮川(はいせん)の漢詩『観捕鯨行』には、朝鮮の名将・李舜臣(イスンシン)が出てくる。以下、漢詩は難解なため、漢字だけを記す白文は省略した。

 「又た見ずや 韓海の李舜臣 勇を奮ひて 血戦し竟に身を投ぜしを 韓海皮島亦た遠からず 今に迄るまで 潮波 猶ほ赤く渾(にご)る」=現代訳:また、韓国の海で活躍した李舜臣が勇猛果敢に苦闘を重ねてやがて戦死したのを。韓国の海も鎮川島もここから挿して離れておらず、今なお海の水が彼らの血潮で赤く染まっている。

 

 これは呼子町を訪ねた折、旧中尾家屋敷(佐賀県重要文化財)でもらった小冊子。草場珮川の漢詩『観捕鯨行』である。漢詩の書下文、解説文は鯨組主中尾家屋敷が作成している。難解な漢詩である。読み下し、現代文をあてはめて完成させるまで、時間を要したであろう。

 

捕鯨で、海が真っ赤に染まる。鯨の息の根を止めるため、壮絶な格闘劇がある。『観捕鯨行』には、こうある。

「中に就いて 一箇 剣索を手にし 不測に突入して 頷齶(がんがく)を穿(うが)つ」=現代訳:小舟に乗った漁師のひとりは縄と剣とを握りしめ、巨体の近くに潜りこんでえらの穴を刺し貫く。

 

 海を染める赤い血から、秀吉軍を海戦で撃破し、最後は薩摩・島津軍の銃撃に倒れた李舜臣の死に重ねている。朝鮮に思いを寄せる人でなければ、このような一句は出てこなかったに違いない。珮川は、それができる佐賀藩多久領の儒学者であった。 

 

 1811(文化8)年、対馬止まりとなった最後の朝鮮通信使の迎接のため、珮川は幕府派遣の儒学者の一員に加わり、渡海した。当時、儒学者の間では朝鮮側を蔑視する風潮も出ていた中、師匠の古賀精里とともに、通信使高官に高く評価された。漢詩文の才能はもちろんのこと、朝鮮を尊敬する姿勢が好感されたのであろう。

 

 珮川の生きた時代、鯨捕りが近海で見ることができた。それほど鯨が身近で、鯨料理も高値であったと思うが、珍しくなかった。玄界灘で盛んに鯨が捕獲され、長者番付に松浦地方や、壱岐の商人が名前を連ねていた時代である。

1811(文化8)年、通信使迎接のため、珮川は呼子港から壱岐を経て対馬に渡るが、その船便を利用して、小川島に立ち寄り、鯨組の営みを見学している。さらに1820(文政3)年、単独で再び小川島に渡り、捕鯨を観察している。そのときの感動を詠んだ漢詩を、呼子の鯨組中尾家に贈った。

 

 珮川にとって、鯨捕りを見ることは、長年の夢だった。

「心飛び 魂騰ぐ幾年時 始めて観る 梅豆羅(めずら)捕鯨の一奇を」=現代訳:長年の間、魂が飛んで行かん ばかりに待ち焦がれていたが、やっと松浦で鯨捕りの一部始終を観ることができた。

 

 『観捕鯨行』は すべて漢字表記。一行7~12字、それを50行にわたり連ねている。さすが、儒学者として名を成した人である。難解な漢字が、数多くでてくる。奇をてらうわけでなく、当時、儒学の水準がいかに高かったか、ここでも見て取れる。