荒城に月19 三原城 | しこくあるく

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四国霊場歩き遍路の記録を中心に、寺社巡りや城郭探訪など旅の日記と徒然の感想を書き連ねています。

生憎の曇り空だったが中国観音霊場巡拝に出た。広島県三原市に一ヶ寺、佛通寺様がある。その次のお寺は広島市となるので距離がある。広島の次は宮島、そして山口県へと入る。今回は佛通寺様のみにしたので朝食を摂ってからゆっくりめに家を出た。
折角なのでいつも新幹線の車窓から眺めるだけで素通りしていた三原城に立ち寄った。


-三原城(みはらじょう) 概略-
海に面していた平城である。嘗て、海上から見ると満潮時には海に浮いているように見えたので浮城とも呼ばれていた。
本丸を中心に、本丸を東・南・西に囲んで二の丸が配され、二の丸の東と北に三の丸が配されていた梯郭式平城である。国の史跡に指定されており、続日本百名城の一つである。


天主台と三原駅

戦国時代真っ只中の永禄10年(1567年)頃に小早川隆景が築城を始めたとされる。隆景は毛利水軍の長となったので、この地への築城が必要だったようだ。
隆景は織田信長の勢いがますます伸張していた天正8年(1580年)から本格的な築城に乗り出し、その後10年掛けて築城が進められた。三原湾に浮かんでいた大島、小島を石垣で繋ぎ築城を行った。その間、天正15年(1587年)に豊臣秀吉から加増を受けた隆景は秀吉の命により名島城(福岡県福岡市東区)に移った。文禄4年(1595年)に、隆景はその前年に養子に迎えていた秀吉の甥・秀秋に家督と名島城を譲り、三原城に隠居した。関ヶ原の戦いを3年後に控えた慶長2年(1597年)に隆景は三原城で没した。なお、秀吉はその翌年に没している。


慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの年、毛利本家は三原周辺を直轄地としたが、毛利輝元は関ヶ原の戦いでは積極的な参加はしなかったが西軍の総大将となっていたため周防・長門の2国(現在の山口県)に大きく領地を削られた。これに伴い安芸から備後西部にかけて福島正則が入封し広島城を本城とし三原城を支城とした。正則は元和5年(1619年)、洪水で損壊した広島城の改築を行ったが幕府から無断改修の言い掛かりをつけられ49万8千石から信濃国高井郡(現在の長野県高井郡高山村)4万5千石と約10分の1に大減封の上、転封となった。

代わってこの地には和歌山より浅野長晟(あさの ながあきら)が42万6千石で入り明治維新まで浅野家の領地となった。浅野家も広島城を本城、三原城を支城とし一国一城令下でも三原城の存続は認められた。


明治時代になり廃城令により建物は取り壊された。明治27年(1894年)鉄道が敷設され本丸に駅が出来た。

-攻城日記-
車でJR三原駅の北側に回り天主台(この城は天守ではなくこう表記する)の回りをぐるりと回り駐車出来る場所を探した。喫茶店の駐車場に1時間150円とあったのでとりあえず駐めさせて貰った。看板を見ると「3時間以上駐車の場合」と書いてあり、また、食事をした場合は無料とあった。駐めた時間が11時だったので城の見学に回ると昼食時になるだろうと駐めて喫茶店を覗いて駐めさせて欲しい旨を告げると快諾頂けた。
まずは天主台の周囲を濠に沿って歩いた。

濠と後藤門石垣(復元)

地図を見ると天主台の他に本丸中門跡と船入櫓跡の石垣と濠が残っているので天主台は最後に残し、先に本丸中門跡へと向かうことにした。

大きな天主台だ

天主台の西側は駅のロータリーとなっておりタクシーが停まっている。その向こうに小早川隆景侯の銅像がある。


小早川隆景像

天主台の南西には張り出し部分がある。

三原駅に食い込む天主台

それを見ながら駅を抜けて南の広場へと出た。


JR三原駅

恐らく三原駅前に立つのは初めてだろう。やっさ祭りのモニュメントと「とんど」が飾られていた。

やっさ祭りの像

とんど

やっさ祭りは三原城に関係していて、三原城が完成したのを祝って城下の人々が踊ったのが始まりと言われている。
駅前から少しだけ南西へ歩くと本丸中門跡へと出る。改修中のペアシティ三原西館の西側に濠と石垣があった。ごく一部だけが直線的に残っている。

本丸中門跡

写真には工事車両が入ってしまい何とも風情がない。
本丸中門跡から東に真っ直ぐ350m市街地を進むと船入櫓の石垣がある。

市街地の向こうに船入櫓の石垣

南西は公園になっていて南から東に濠がある。

公園と船入櫓の石垣

南東隅の石垣の下にはかつて島だった石が見えている。


海岸の石の上に積まれた石垣

聖トマス小崎像と船入櫓石垣

聖トマス小崎は伊勢出身の日本26聖人殉教者の一人

この地で母に宛て手紙を書いた

東から北に向かって歩き、三原駅前まで出て船入櫓の石垣上に上がってみた。

東から見た濠と船入櫓石垣

船入櫓の石垣上へ

石垣上は小さな公園である。

船入櫓の石垣上部

船入櫓と言うぐらいでかつてはこの下まで海だった。船入櫓は三原湾に向かって突き出しており、ここに船を着けていた。
船入櫓を見て再び三原駅まで戻った。駅のコンコースから天主台へ上がる階段がある。

天主台上部へ

そこを上って外に出ると天主台へ上る。

新幹線高架下に残された石垣

広い天主台だ。

天主台上部

丸々この上に建物が建っていたら江戸城天守並みであるが、二層櫓が三基建っていたようだ。
天主台から下り駐車させて頂いている喫茶店まで戻った。喫茶店の南は新幹線の高架となっており三原城本丸石垣が高架下に残されている。それを見た後、喫茶店に入り昼食を摂った。

昼食のお好み焼き定食

注文したのはお好み焼き定食で、もちろん広島焼きである。美味しく食させて頂いた。