(つづき)
まずは別格第十六番萩原寺(はぎわらじ)を目指した。観音寺駅から萩原寺への案内は、かの協力会の地図には無い。スマホのマップを頼りに歩いた。約8kmの道のりである。
左折し南へ向かう
方角は概ね観音寺駅の真南だ。ブロ友さんから、無理しないでと暖かいメッセージを頂いたので返信しながら先へと進む。
気温が高く歩いていると汗ばんでくる。湿度も影響しているのだろう。時おり空が明るくなり、晴れてくれるのかと淡い期待を持たせる。道の向こうの家から「おはようございます。」と女性の声がする。声の方を向くと自分に投げてくれた挨拶だった。自分も大きな声で返した。これが徒歩巡拝の悦びというものだ。
左手に大きな工場の建物が霞んで見える。さながら現代の城である。
テーブルマーク本社工場
テーブルマークの本社工場だ。かつては香川県を代表する企業の一つで、加ト吉という名の会社だった。今は日本たばこ産業傘下の東京の企業となっている。世の中は常に移ろい続けている。諸行無常なのだ。
国道11号と交わるところに四国第六十六番雲辺寺(うんぺんじ)への看板が出ている。距離は8kmとある。
雲辺寺への標識
そのような距離であれば歩いて往復出来る。しかし、これはロープウェイ乗り場までの距離だ。
高松道近くの灯籠
高松自動車道のガード下を抜けてしばらく歩くと”生木地蔵 500m”と道路標識がある。早とちりした自分は右方向にある林がそうだろうと決めつけて向かった。しかし、そこは大野原八幡宮の社叢だった。無駄足であったかと思ったが、観音寺市役所大野原支所前に公衆トイレがあり用足しが出来た。
再び元の道に戻り、ようやく生木地蔵(いききじぞう)へと辿り着いた。一度、車では訪れたことがあったのだがすっかり場所を忘れていた。そういえば県道8号からさほど離れていなかったのだ。脇道へ入らず県道を南下しておけばよかったのだ。
この仏堂、お堂に入ると御本尊の生木地蔵様が拝める。楠の大木にお地蔵様が刻み込んである。
江戸時代後期の天保7年(1837年)この地の住人、森安利左衛門という人が病弱な娘ナヲの健康祈願の為に楠に5尺(約151cm)の地蔵菩薩像を刻んだ。利左衛門は四国霊場を巡拝し伊予丹原の生木地蔵(四国別格十一番札所)を参拝して感銘を受け、娘のために自分も同じような地蔵像を刻もうと思ったのだ。この甲斐あって、利左衛門は慶応2年(1866年)86歳まで生き長らえ、ナヲに至っては大正8年(1919年)100歳という長寿を全うした。こうして延命長寿、祈願成就の霊験あらたかなお地蔵様として参拝者が絶えないという。
無事の参拝を祈願した。娘の為に刻んだお地蔵様に対しても、了見の狭い自分には利他はおろか家族への祈願さえ出来ないでいる。
生木地蔵堂を出て更に南下する。
萩原寺の本坊は大きい。観音寺駅方向から歩くと本坊の裏から回り込むようになる。
萩原寺本坊
寺は詳しく巨鼇山(きょごうざん)地蔵院萩原寺という。山号は雲辺寺と同じである。
巨鼇山の扁額
真言宗大覚寺派別格本山であり、寺院名の通り、秋には萩の名所となる。御本尊は伽羅陀山火伏地蔵菩薩(からだせんひぶせじぞうぼさつ)様で弘法大師の御作と伝わる。伽羅陀山とはお地蔵様が住む須弥山を囲む七つの山(七金山)の一つである。
萩原寺は四国三十六不動第二十六番札所、四国讃州七福神の弁財天札所ともなっている。
参道にはソメイヨシノが見頃を迎えていた。
ソメイヨシノ咲く参道
小腹が空いたので参道のベンチに腰掛けパンを頬張った。自分以外に参拝者は居ないようで、桜を独り占めだ。
灯籠とソメイヨシノ
桜を眺めながら休憩しているとお寺の売店の女性が歩いてこられたので言葉を交わした。天気の話をするとスマホで調べて大丈夫と教えて頂けた。親切な方だ。大興寺のご開帳に合わせて参拝したと告げるとご開帳の日にお詣りされたそうだ。「この機会にお詣りせんと、次のご開帳は僕はお墓の中ですワ。」と話すと「私もやわ。次のご開帳の時も生きとったらバケモンやで!」と言われるので思わず吹き出した。
ここの本堂は一段高い所にある。
山門を抜ける
山門を抜けて階段を上ってお詣りした。
手水舎とヤマザクラ
春の本堂
大師堂は再び山門を抜けた参道横にある。大師堂の参拝を終え石橋を渡ると蛇がジッとしている。杖でつついてもビクともしない。死骸かと頭を小突くと少しだけ動いたが、気温が高くないせいか、それ以上は動かない。ここは弁天様の霊場でもあるので、この蛇はきっと宇賀神様なのだろう。自らどこかに動くまでそっとしておいた方が良さそうだ。
納経所で納経帳に重ね印を頂き、サンプルほどの線香をお接待に頂いた。売店の女性に挨拶し寺を後にしようとした頃、歩きの女性が一人、車参拝の方が数名やって来た。タイミングよくゆっくりお詣りさせて頂いた。
(つづく)