高野山御礼参拝 10月12日 | しこくあるく

しこくあるく

四国霊場歩き遍路の記録を中心に、寺社巡りや城郭探訪など旅の日記と徒然の感想を書き連ねています。

翌朝、6時から朝のお勤めがあるので5時には起床し仕度を調えた。
6時前に本堂に入りお勤めが始まる。この僧坊は悉地院(しっちいん)も兼ねているので御本尊が2躯並んでいる。中央に無量光院の御本尊である阿弥陀様、向かって左に悉地院の御本尊の愛染明王様、右には弘法大師がおられ、それぞれに修法壇が備えられている。無量光院の無量光とは梵語のアミターバの漢訳で、無量光如来とは阿弥陀如来を指す。阿弥陀様はまたアミターユスの名も持っており、こちらは漢訳で無量寿である。従って無量寿如来も阿弥陀如来と同一である。

導師が入って来られ、中央、左にぞれぞれ登壇された。中央の導師は青い眼の方である。悉地院の修法壇は護摩壇となっており中央の壇で読経が始まると護摩が焚かれた。30分ほどの長い声明の後、理趣経が唱えられた。6人のお坊さんが和して唱える理趣経は荘厳そのもので、感動して鳥肌が立った。理趣経が唱えられて暫くすると参拝者全員仏前に進み出て間近で参拝させて頂ける。約1時間強のお勤めが終了し、法話を頂いた。昨日、金堂で拝観した御本尊は薬師如来様であるが、左手は拳を握って胸に当て、右手は甲を外に向けて地に付ける触地印(そくちいん)を結ばれている。つまり悟りを開かれた釈尊のお姿である、阿閦如来(あしゅくにょらい)様のお姿なのだそうだ。また、奥の院にお詣りして、心に重い荷物を背負っている人は南無大師遍照金剛を唱えればお大師様が一緒に荷物を担いで下さるので心の荷を軽くして山を下りることが出来ると語られた。朝のお勤めが全て終了したのは7時半だった。

朝食も部屋まで配膳して頂ける。配膳までの間に会計を済ませた。部屋まで戻る途中、膳を運ぶ姿を見た。一度に7段ほど重ねて廊下はおろか階段まで登る。これも大変な修行だ。8時に食事が運ばれた。急ぎ、食べ終わり自分は納経印を頂いた。


朝食の精進料理

ついでに写経をお納めすると納経料として1,000円必要とのことだった。
無量光院の定紋は織田木瓜(おだもっこう)紋と違い鷹羽(ちがいたかは)紋の二つである。織田木瓜は織田家の紋、違い鷹羽は浅野家の紋である。この寺院、特に悉地院の方は両家と所縁がある。

Nさんは高野山の後の為に山伏姿となっている。8時半前、無量光院を出発し、奥の院へ向かった。昨日と打って変わって清々しい青空だ。8時半過ぎに中の橋駐車場に到着したのだが、もう既に観光バスは何台も駐まっており普通車の駐車スペースも数台分しか空いていない。高野山か麓で宿泊した人達が早朝から参拝されているのだろう。

秋の朝、澄んだ空気の中を奥の院へと参拝した。Mさんが初高野山なので建ち並ぶ墓石を案内した。無量光院は高野山における上杉家の、悉地院は織田家・浅野家の祈祷寺院で奥の院参道の織田信長公墓は無量光院が管理している。
御廟橋(”みみょうばし”と読むのだそうだ)を渡る。まだこの時間だと、みろく石には行列は出来ていない。久しぶりに、みろく石を持ち上げてみたが、重いものはやはり重い。
古札と古いお守りをお返しし、御廟の前へと向かった。緑札最後の一枚と写経を納め、献燈香し4人で読経を行い無事に開創1200年巡拝のお礼参りを済ませた。地下の戒壇を巡り、納経所へと向かった。みろく石には行列が出来ていた。先ほどは良いタイミングだった。納経印を頂くと、お祝いの言葉を頂いた。7度目にして初めてではなかろうか?お礼を述べてお姿を求めた。弘法大師座像はあるが、修行大師のお姿は無くなっていた。

高野山はもう紅葉が始まっている。


奥の院の紅葉

駐車場へと帰ると9時過ぎにして既に満車となっていた。

皆さんのお陰をもって7度目の満行となった。4人で楽しい高野山参拝をさせて頂いた。感謝である。

あなうれし 行くも帰るも とどまるも 我は大師と 二人連れなり(同行二人御詠歌)
南無大師遍照金剛