いや田舎あるだろ。
というわけで、私が思う日本に田舎なんてほぼほぼ存在しないと思う理由を書く。
田舎とは、なんであろうか。文字通り田と舎(住居)を語源とするような、農業中心の非文明、科学や工業と乖離した土着な生活様式うんぬんカンヌン。とかとか言ってみたり思ってみたり、それが田舎であろうと思っているそこのあなた。
それはきっとただしい、多くがそう思っていればそれが正解。一般的田舎、辞書に記される定義された都会の対義語としての意味。
それに対して、すこし思ったこと、それは世界の糞田舎の生活をドキュメンタリー番組という貧しい人々を見世物にした娯楽映像を見てて分かったんだけど。もうこの世界に、田舎といえるほどの、隔離された集落なんてぜんぜん存在しないってこと。
結局は田舎なんてさ、自虐であって、なおかつ悪口として、まだこの世の中で使われている言葉でしかない。
なぜなら、田舎という言葉は、人類史的にみれば、それを指す集落が先にあり、そこから街が生まれ、国が生まれ、組織が構成されるわけで。常識に考えて、間違いなく、都会という言葉は後から生まれたわけで。
田舎をバカにすることはつまりね、都会にいてこそ生まれて、使われ始めた言葉なわけですよ。
で、なぜ、日本には田舎なんてない、という考えに至るのかと言えば。
それは日本が発達している国だから、その発展は国の隅々まで道路と法律、電気や水道が行き届いているという意味である。
よほど離島でなければ1万円もあれば、普通は上京(東京以外の都市含む)できるでしょ。
インターネット普及前でも、本屋があって、新聞やテレビでも情報や電波が届いていたわけでしょ。
極論を言えば、田舎と都会の差って利便性でしょ。
東京で働いて、家は郊外にある人は田舎者?都会の人?
いまや、日本全国にコンビニがあって、アマゾンで荷物が届くこの国で、利便性の違いは大きくない。
では人口差を田舎というのか都会というのか、というのならば・・・
ぐ・・・、そうかもしれない。自己論破されてしまった
今や人口が密集していれば、それを都会といい、人口減少の限界集落を田舎と定義されればその通りである。
政令指定都市という人口100万人の市という明確な基準で、ここは都会、それ以下は田舎といわれたら、この話は終わってしまう
なのでその話なかったことに、田舎と都会という明確な基準の無いあいまいで感覚的で相対的に使われている言葉に
私の基準はここであるという、考えを言いたくて書いている詭弁日記なので話を戻す。
つまり、発展性を軸に田舎だとか都会だとかを定義すると、日本の多くはその水準を満たしていると私は考えている。
あの万国貧乏集落映像みてて、彼らの娯楽の大きな違いを見てしまったから思うんだよね。
デジタルがない人生なんだよ、農業して家畜をぶつぶつ交換したり、野菜を街で売って、得たお金で服や肉を買うだけの生活を繰り返す
そういった彼らの人生というか、その国には多分、映画監督という職業はない
映画監督は簡単な例だけど、映画を撮るための興業としての会社すらないってこと。
もっと言えば、映画という娯楽すら知らないかもしれない。だから彼らの人生にゲームクリエイターだとか映画監督だとか
そういった人生の生き方すら知らない生活、世界と繋がっていない閉じた場所、その情報すらも来ない場所。
それこそが田舎なんじゃないだろうか、と思ったわけ。
自分も横浜の緑区とかいう田舎に住んでて、山の上に学校があって、田んぼと、団地しかない場所で
コンビニも歩いて30分以上かかって、公園だけはいっぱいあって。
田舎だなあと思っていたけど、バスで30分もすれば横浜駅いけてさ、欲しいものは大抵買えるし、
スーツ来た社会人ばかりいて、当たり前に通勤できてたからねえ。
結局これも隣に東京様があって、そこに比べたから田舎だと思ってたわけで、
その緑区とか言う田舎よりも、田んぼと山しかないような田舎でもさ、欲しいものはネットで買えて、映画監督になりたい夢は見れて、1万円もあれば東京には来れる手段がある。
国が税金を使って、国道を作り、学問や最低限文明的な生活を保障する限り、相対的に生じる都会から見た時の田舎という言葉は
どんどんと薄くなっていくはずである。もちろん正しい政策で人口差も解消されていくはずである(え?)。
だから田舎とか都会というのは国の中身のミクロな都市や県に使われるのではなく、国そのものの差で使われる言葉になるであろう、という予測。
いずれ宇宙開発が進めば、地球に住んでるやつを田舎者と呼ぶんですよ。あと100年もすればね。