1945年8月6日8時16分
私、某国民学校 三年生でした。この日夏休み中の 登校日だった。
登校集合場所、近所の階段皆が来る迄、10人ばかり魚とりの話。
見すぼらしい児童?履物はゴム靴、下駄、草履、等々私はいつも草履
午前7時半、班長が皆揃ったの~じゃあ~行くで~
その時、轟音を響かせ戦闘機が編隊を組んで飛来・・
「班長が、うわ~アメリカの飛行機じゃ~」胴体に☆マークがはっきり見える程
低く東空に飛んで行った
学校まで10分、教室で「ぎょうさん飛行機が飛んでったの~」話で持ち切り
ワイワイ、がやがや・・私、大好きなおなご先生の所に行こうと廊下走る。
「光った」・2,3秒後、校舎全体の窓ガラスが、ガチャ・ガチャ・・・・ガチャ・・
割れんばかりに・揺らいだ・・あちこちの教室、職員室から・大きな悲鳴。たまげた~
一斉に校庭に出る「何、何、どうしたんや?」見当がつかない
女子はおなご先生に抱き着いている。
5分ぐらいかな。「あれーっ・あれーっ」西空を指さす・真黒い入道雲が出た。
大きなのが、モクモクと(当時はそれしか考えられなかった)・
「校長先生、あれ何」と聞いても・分からん「ガスタンクでも爆発じゃないか」❓・
「何があったか分からない、今日はこれで下校、気を付けて帰れ~」
3年坊主の私、何も分からんまま・友達と魚取りにいそしんだ
その夜が大変!!・・家の前に馬車(馬で材木を運ぶ車・幅2M×長さ4M)・が止まる?
真黒い、顔した人が5,6人、中には横になってる人も
降りた人が私にただいま・怪訝そうな顔してたら「わしょ、わしょ、上の婆よ」
「あ~~ばあちゃん・どうしたんね❓」
「広島は大事よ・ぎょうさん人が死んだよ」と泣かれた
3年坊主の私には分からない❓翌日から教室が非病者の部屋になった
日にちが経つうちに、事の重大さが、3年坊主の私にも分かって来た。
後は皆さん良くご存じのとおりです。
又、大きな問題 家を焼かれた児童がこの地区の寺に宿泊・・
爆心地から約40キロ離れた過疎地にも悲しい出来事が、ぎょうさんありました