今日の
5月12日は父の命日で、4年が経ちました。
やっと、父のいない実家に慣れてきました。
4年前の投稿です。
青葉薫る5月12日
父は旅立ちました。
なくなる一週間前に、母にこう言ったそうです。
「わしは、ええ人生だったのう,楽しかった!」と言ったそうです。
母は、「私も!お父さんでよかったよ。」と言ったら
「そう思ってくれるか!そりゃあよかった!」と言ったそうです。
父は、大好きだった鉄道の国鉄に入りました。
8月9日、福山空襲にも会い、その貴重な体験は、広島市の原爆資料館に
保存されることになりました。
父が生き抜いたその価値は、
100年後 も1000年後も世界の平和のために残されることでしょう。
(原爆資料館取材風景)
国鉄を早期退職し、書道の道に進みました。
自分の特性を生かして、努力をおしまないそのはつらつとした
姿は、実にたのもしいものでした。
私が受験に失敗したとき
「受験の失敗なんて、おまえの人生のかけらにもならん」
と言ってくれました。
ある時
私が父の車に乗って、
ぶつけて帰ったとき、
母は、激怒しましたが、
父は、
「形あるものは、いつか壊れるものよ。」と言い、
「 起こってしまったことをもう言うな。
今、どうしたらいいかを考えよ」
どんな時も、
そう言っておりました。
「人生の中で、結婚をするとか、しないとか、そんなことは小さなことだ、
大切なのは、幸せだと思える充実した毎日をいかに送れるかだ。」
と言っていました。
上京するとき、父は、
自分のエネルギーを自分の進む道につぎ込め、
と言って送り出してくれました。
たとえお金がなくても、アイデアやくふうをこらし、楽しみをみつけることができる
というのは、父から教わった気がします。
父は、日曜大工で、はなれに、2階建ての一軒家をつくりあげました。
土台から屋根まで、メゾネットタイプになったその家は、
父の書道の書斎をとなり、自分の城となりました。
晩年は、その部屋ですごし、
もしなくなるときがあったら、
救急車で病院に運ばれるよりは、その大好きだった、自分の家で
そして、自分でつくりあげたその部屋で送ってやりたいと思い、
在宅医療を選択しました。
理想的な最後でした。
5月12日夜
母に父が
「早く寝なさいよ」と手を振り、
その15分くらいあとだったようです。
母・姉・私で、泣き崩れたけど、あたたかな葬儀でした。
父は、母と姉と私を幸せにしてくれました。
家の中で目が合うとまんめんのを笑みをかえしてくれる父でした。
人生を思い残すことなく全うした父に
親ながら、あっぱれやりたいと思います。
今、実家には、このイラストが額に入れてあります。