どんな立派な人間でも、

いま自分の肉体のあるところからしか物を見ることはできません。

 

自分のいるところからしか考えられないし、判断ができません。

だから人間の考えは、どんな立派な人の考えも偏見なのです。

 

偏見は間違った考え方ではなく

「正しいけれど片寄っている」ということです。

 

 

それぞれが片寄った考え方なので、

現実社会では必ず対立が生じます。これを矛盾と言います。

一般的には、矛盾はあってはいけないもので、

矛盾を無くそうとします。

 

これは「真理はひとつ」と考える理性の判断です。

 

そこで、どちらの考えが正しいか決着をつけようとして対立します。

 

対立する両者よりも、

より高次元の1つの考え方に統合しようというのが、

ヘーゲルの弁証法です。

しかし弁証法的統一としてできる答は、

またその答に対立する新しい考え方を生み出し、

永遠に無限の対立から抜け出せません。

 

この対立の連鎖と現実的対立から抜け出す道は何か。

 

それは「考え方の違いは無くならないのに、

無くさなければならない」

という矛盾を理解し、解釈するのではなく、

「考え方の違いは、なくならないものであり、

なければならないもの」

だと理解し、解釈することです。

 

自分と異なる考えは、

自分の考え方の問題点や欠点や足らざるところを教え、

補うために出てくるものなのです。

矛盾は、偏見や人間の不完全性を補い、

修正するために必要な現実です。

矛盾を無くして1つの考えに統合するのではなく、

矛盾を活かして、お互いに相手から自分の足らざるところを学び、

謙虚に自分の考えで実践し、行動すること。

 

 

自分の欠点や問題点を自覚し、

行き届かないところに配慮して、

自分の片寄りや不完全性を修正しようと意識することで、

対立を克服する力をもつことができるのです。

 

弁証法が無限の対立の連鎖から脱却できないのに対して、

感性論哲学では現実のすべての存在を

相互補完的な関係にあると解釈することによって、

学びあい助けあい協力しあう

共存的平和な生き方を確立したのです。

 

人類が平和的な生き方をしていくためには、

弁証法から抜け出して、

感性論哲学の「根源的統合の論理学」

を原理とした意識革命が必要なのです