奈良の西大寺の住職がテレビでおもしろい話をしていた。
西大寺には、愛染明王の秘仏がある。
この寺の愛染明王は、真っ赤に色づけられた「愛と欲望の秘仏」。
煩悩として遠ざける、捨てよと教えている愛欲や欲求欲望を肯定し
それを生きるエネルギーに変えて、理性を発達させ、悟りをひらく。
愛染明王は、「愛や欲望を生きるエネルギーに変えよ」
と教えている。
「人間は、本能で生きたらいけない。
理性を働かさなければいけない。」
と言われているが、
「煩悩は本能的なもの。これを成長させなければ
理性は発達しない。」
「本能である欲望を大事にし、
勇気を出して、本能で生きよ」
と教えている。
住職の話は、芳村思風先生や行徳哲男先生の話と同じでした。
●感性命(かんしょうみょう)という言葉がある。
理性命(りしょうみょう)という言葉はない。
●本能とは、命の底から湧いてくる欲求や欲望。
「欲も捨てなくてもいい。物欲も捨てなくていい。
欲求・欲望は、命の底から湧いてくるもの。
感性が感じるもの。湧いてきた欲求や欲望を、
理性を使ってより人間的なものにする。
欲求・欲望を満たすためだけだと、人に迷惑をかけたり、人のためにならないこともしてしまう。
人の役に立つように、人に喜んでもらえるものにするために理性を使う。
「寒さをしのげればいい」という考え方では、建築文化は発達しないし、服飾文化も発達しない。
すべての発展には、物欲を人間的に品格のある洗練されたものにしていこうという意志があり、物欲を人間的な物欲にする努力が文化や文明を発展させてきたのです。
東洋の道の思想は、物欲を洗練し、品格のあるものにしていくものである。
我は、自己の存在証明であり、我を捨てれば人間の成長はなくなる。
物欲を捨てれば、文化や文明の発達はなくなる。
欲や我がなくなれば、人間ではなくなる。
大切なことは、我や欲を捨てるのではなく、すべてを肯定し、自分には我も欲もあると認める。
我をなくす不自然で、無理な生き方をするのではなく、人間であることに対して素直になること。
「足るを知る」から、
「より高度な足るを知る」をめざしていく。
●「命の底から湧いてくる欲求欲望を
理性を使って、人間らしいものに変える。
感性と理性のバランスではなく、
感性と理性の協力関係が大切なのです。」
もうひとつ面白いことを言われてました。
愛染明王は、西洋で言う「キューピット」です。
手に『弓と矢』を持っています・・・
wikipedia より
愛染明王は「煩悩と愛欲は人間の本能でありこれを断ずることは出来ない、
むしろこの本能そのものを向上心に変換して仏道を歩ませる」
とする功徳を持っている。
愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、
頭にはどのような苦難にも挫折しない強さを象徴する獅子の冠をかぶり、
叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮 の華の上に結跏趺坐で座るという、
大変特徴ある姿をしている。