復習が大事は本当だった ということを書いたけれども
バトン参加の回数が増すにつれ
それがどんどん積み重なっているのを痛感していて
振り返りに時間を割くのにきりがない感じがしていますが
出雲へ向かうまでには
重要なところをしっかり掴んだ状態で臨みたいところです。
 
 
 
 
知識やキャリアを積んだ人ほど
人生の打開は難しいものなのでしょうか…
 
それって、とんでもないパラドックスな気がします。
 
最近の受験では
単なる学科試験の点数だけではなくて
自分はどういう、何ができる人なのか?みたいなキャリア的なことが
ある程度のウェイトを占めるようになってきているのだそうですが
 
自分は何ができるのか?
ということをたくさんアピールできる人が有利な感じになっていて
それが本来的な合格基準として妥当なのでしょうか…
 
と、個人的には考えあぐねてしまいます。
 
 
学校とか学生生活って、
はじめて家族以外の人たちとの関わりを知っていく機会で
これからの自分を見つめるためにも
人と関わる大切な場のはずではなかったでしょうか。
 
 
でも今は、わずか十数年の人生で
知っている大人といえば、親と先生しかいない中で
自分には何ができるのか…という行為のことを必死で考えなければならず
 
親の責任としても
この子は他の人と違って何ができるのか
 
という、他者と比較した
できることのクオリティと数に常にフォーカスしがちです。
 
 
はたまた、標準的にできるとされていることができない子は
発達障害ではないか…?という判定に入っていったり
その流れから、最近では
一般的にできるとされることができない大人やパートナーなども
発達障害ではないかと、かつては存在していなかったものに疑われてしまう。
そんな疑いを持ちながらの相手との関係は悪化する一方で
心療内科 にもそのような相談にこられる方がいらっしゃいます。
 
 
 
誰かができることができないことは
そんなに問題なのでしょうか?
 
 
けれども、社会が求めるものがそうなっていますから
そこから離れていては、社会からの脱落者と見なされていって。
 
最近は、そんな世相と矛盾に満ちた世の中に
付き合いきれなくなっている聡明な若者たちのバトン参加の数が増えてきました。
 
やっていられなくなる気持ちもわかりますが
そこにどうにか適応しないと生きていけませんから
親御さんや先生たちも別の意味でまた必死で。
 
そうやってみんながそれぞれの立場でそうするしかなくて苦しんでいます。
 
 
学生に限らず
まず先に本当に知った方がいいことは
 
自分には何ができるのか? よりも
 
自分はどうあるのか?
 
ということではないでしょうか。
 
 
 
 
それを知らないままに
こうあるべきという教育や知識で
どんどん自分ではないものをつけて固まっていきます。
 
そうして、うまくいかなければ
別の how to (どうすれば…)を常に探し続いていきます。
 
自己分析の学問分野においても
基本的には統計学的な分類に基づいて
そこに自分を当てはめていますから、
パターン化されたいずれかの中に自分を落とし込んで
それが自分だとわかった気にさせられていきますが…
 
本当はすべての人が違います。オリジナルです。
 
 
 
 
本当の自分がどうあるのかということをわかっていれば
 
一見、目移りするように並びたてられたものも
自分として選ぶ必要はないことや
 
どうして自分はそれを選んでしまうのかということが理解できます。
 
人はどうしても、
できることの質や数でその人をはかってしまう傾向にあります。
 
 
だから、沢山の知識やノウハウを身につけてしまう人も多くて
どこまでいってもどこか不安で、
こんなにがんばっているのに…と
いつしか疲れ果ててしまっているのでしょう。
 
 
 
 
仏教では
利他ということが教えとしてあります。
 
直訳的な表現に変えてみるならば
私利私欲ではなく、相手の利益を優先しなさい
という感じでしょうか。
 
けれども
ここで、《相手の利益》って何なんでしょうか?
という定義さえ
自分とその相手では違う可能性もありませんか?
 
その一方で、最近では自分を大切にと盛んに言われ始めていて。
 
相手のために、でも自分も大切に
 
それをどのように納得感を持って実現すればいいのか…
 
途方に暮れている人も多いのかもしれません。
 
 
 
『利他』とはどういうことなのでしょう。
 
 
人は意外と自分の前提(当たり前)を疑うことなく
人のためと思い込んで一律に行っていることが多いように思います。
 
よかれと思ってやっていたその相手から受け入れがたい反応があったり
反応がなくて様子がわからなかったりすると
対応が不十分だったのでは…と不安になっていきます。
 
こんなに一生懸命やっているのに…と、疲れ果てていきます。
 
 
 
相手の反応は、正直な反応なのでしょうか。
 
相手が自分のことを主張しない人だったら?
 
 
自分の主張をできない人は
自分の意見はちゃんと言えるようになりましょう
と教えられることになっていったりして。
 
何でも言えることは、相手のためにいいことなのですか?
  

 

 

 

すべての人がオリジナルに違うという前提にあるとき

 

丁寧で親切な対応とはこういうものと 
一律にマニュアル化されたサービスなど
本当に相手のためになっているのかどうかわかりません。
 
 
本当の利他とは
 
自分の価値観に基づく自分軸ではなく、
それぞれ違う相手軸で選択していくような感じではないでしょうか。
 
けれども、
すべての人がオリジナルで違う前提に立ったとき、
相手が自分のことを主張しない人だったとき、
 
自分とは違う相手のことはわからないからこそ
知ろうとして関わるしかありません。
 
 
 
利他(相手にメリットがあるのか)と相手軸。
 
 
そもそも、その相手はメリットがわかる人??
 
 
メリットなどという小さな世界じゃなく
相手を幸せにする。
 
そんな想いしか、私たちは持ちようがないのでは?
 
 
 
 
バトンに参加していろんな人を見ていると
結果として今見えているその人は
実際のその人とは真逆だ
ということが少なくない気がしています。
 
ですから、
何がどのくらいのクオリティでできるのかということよりも
 
まずは、自分がどうあるのかということを
きちんと見極められる人と関わらないと
事がどんどん複雑になって
ただただ本当の自分がわからなくなって終わってしまうと思うのです。
 
 
本当の自分を知ること
 
そのためにバトンの場はあります。
 
その先に問題としていたことは
問題ではなくなってゆくかもしれません。
 
 
 
 
そもそも、自分という認識ができない人は
自分軸というものが理解できるのでしょうか?
 

 

 
 
あなたが知りたかったことの答えは
バトンの場に必ずありますよ^^
 
あなたが本当に知りたいと願うのなら。
 
shiho
 

 

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