で、自分ではない、何か、になろうとする時期があるから、本来の自分に戻るわけでして、
なんでもいいんですよ。
窮屈な型にはまることで、自分を知る。
窮屈だな、って思っても、しばらくは、その窮屈な型の中で、もがく時期ってめたくそ大事で、窮屈な型があるから、自分が持って生まれたものの性質がわかるわけじゃないですかね。
うさぎが、ライオンという型になろうとして、なれなくて、でも、憧れて、なりたくて、なろうと頑張って、でも、なろうとすればするほどに、ライオンとは違う、ライオンにはなれない自分の欠片をつきつけられる。
実は、その欠片が、自分の可能性であったりする。
ま、中には、その欠片で、修正をかける必要があるものもあります。
だから、窮屈な型にはまることなく、わたしはわたしらしく生きるのだ!と、窮屈な型になる時期を体験せずに生きると、修正をかけるべき自分が見えないので、要は、自分が見えないので、自己満足、自己中ができあがるわけですな。それは、私らしさか、というと…、、、。
この型は、私にとっては、この先も必要です。私とは異質な人という型を知ることで、入ることで、新たな自分を発見するから。自分の中だけに籠るのは、自己満足だなぁと、独り活動してきて、つくづく痛感していて、
だから、窮屈な型にはまる時期はこの先も大事で、えーと、型に(誰かになるのではなく)はまらずとも、自分とは違う生き物と違うエネルギーを交換しあうは、大事やなぁと。
この世界には、これまでの時代には、その窮屈な型ばかりで、大変よか!な時代であったと思います。
完璧な人物像、理想の人物像、
完璧なお母さん、完璧な先生、完璧な部下、完璧な生徒、完璧な自分、みたいな、完璧で綺麗ででも窮屈な型が、そこらかしこにある。
そこに入ってみたら、そこに向かって頑張ってみたら、窮屈な型でがんばった中で、はみ出たところ、はまれないところ、はまれるところ、などなど、その凸凹さが、本来の自分を教えてくれていて。
でさ、完璧を目指す時代ってのも、面白かったじゃないですか。それがないと、この文明社会はできあがらんかった。
完璧な窮屈な型(それが楽しい人がそれやってたらええ話)の中で、
・はまりきれない自分
・はみ出す自分
・はまれる自分
いろいろな方がいらっしゃると思うのですよ。
その型の中で知れた「自分」が、オリジナルな自分ですのでね、
(はみ出ようが、はまりきれなかろうが、はまれる人も)
その型で知れた「自分」=「特質」をもって、そろそろ、型を破る時期ではありませんかね。と、思ったりするのです。
"友人"うさぎに、
「しほはつよいから」
と言われまして。
自分を弱いと決めた友人に、
"しほ"ライオンは、
その弱さは、強さなんやけど、と。
思いまして。
その"弱さ"とタッグを組んだら、
だれよりも強いのに!と、
友人に思った次第でありまふ。
しほは強い、と言われまして、
BLOG2.より。
#タダヨガ #ヒキザンガヨガ