
こんばんは。おごし志保です。
子どもの頃から何かと3日坊主で
3日続いたら上出来な感じ(笑)
その私が、不思議なことに
コーチングはかれこれ14年も続いているんだから
奇跡に近いけど
実は、奇跡でもなんでもなく
必然だったのでした。
に、重複するけど
子どもの頃、不思議に仕方なかったことがあってね。
それは、大人達が言う
「どうせ、出来ないんだから。」
どうせって?
できないって?
やる前から???
できるか?どうか?なんて
聞いてないし
できそうか?どうか?
そのこだわりに何があるの???
もしや、大人達は
できそうなら、やって
できなさそうなら、やらないのか?
できるか?どうか?やってみる!に
どんな抵抗があって
なんの許可を必要としているんだろう?
大人達のこだわりに、子どもの私が知らない
何かが、あるのかもしれない!と、思って
素朴な質問をぶつけてみたこともあったけど
屁理屈として、あっさり却下されました(笑)
幼稚園児なりにいろいろ考えて
よく分かんないけど、まあ、いい。
みんなが、やってみたいことを
やれるか?どうか?ではなく
やれそうか?どうか?でもなく
やってみたい!やってみよう!を
ただやることが許される
世の中を、私が創ったらいいだけのこと。
そうだ!!!
幼稚園の先生になって
その世界を創るんだ。
(当時の少女の最大キャパが、幼稚園の先生だったわけでした(笑))
お母さんになんてならないよ。
だって、お母さんになったら
自分の子どもしか、そうできないもんね。
私もだし、その世界を望んでいる人は
たくさん居るはずだから。
紆余曲折あって
志なかばで
幼稚園の先生にはなることもなく
長い不妊治療をしてまで母になったわけですが
コーチングの話を聴いて5分で
「これだ!」
「あの時の志、これならできる!」
ピン!と来て、確信したのでした。
途絶えていた様で
途絶えていなかった。
みんなが、やってみたいことを
やれるか?どうか?ではなく
やれそうか?どうか?でもなく
ただ、やってみる!を、やる世界
その世界を創れなら
幼稚園の先生でも、コーチでも
今後、他の何かでも
職業とか、立場や肩書きとかは
何でも良かったわけよね。
自分がそうしよう!という
意識とか、意志とかいうより
同じベクトルを向かって
普通に、生きてきた。
普通に、生きている。
自分にとって普通の世界を
創っていくために
私は生まれ
命を与えられ
そのプロセスにこそ
生きる意味が含まれていることを思うのよね。