日本のボランティアは199年の阪神・

淡路大震災で大規模な活動が始まり

災害ボランティアはその後も

大きな広がりを見せています。

 

一方、地域で協力者を必要とする人たちへの

ボランティア活動も根付いています。

ここではそういう方たちに助けられて

すばらしい小学生時代を過ごした

我が難病の娘の話を致します。

 

難病(筋ジストロフィー系)の娘に

寄り添ってくれた人々

 

当時、診断がつかなくて治療法が

なかったので、私たちは娘の

「基本的な健康を保つこと」を

目的とし訓練をはじめました。

 

週に2回大学生や主婦のボランティア

が「こんにちわぁ」と来宅。

専門家に教わったプログラムと

何でもタイムをお手伝いくださいました。

 

体操やマッサージ、勉強、近くへ買い物

特別企画は合宿、遊園地、プール、パーティ・・

 

 

(ボラのお兄さんと訓練中のマヤ) 

 

合宿は季節に合わせて山登り、海水浴、

スキーなどでした。

 

私たちミニ家族には到底このような

素晴らしい経験を娘にしてあげられません。

娘ばかりか家族にとって救いと喜びの時間でした。

 

娘は卒業後、母国の中学校に進み30年。

ご縁は切れることがありませんでした。  

 

去年の秋、娘急逝のご報告と御礼のために

私は帰国し、お世話になった方々と

娘不在の懐かしい再会をいたしました。

 

どの再会でも涙がこぼれましたが

 

マヤが「安らかだった」こと

余命宣告の7倍も長生きしたこと

生きてる意味がわかったこと

 

どなたも喜び偲んでくださいました。

 

「マヤちゃん同窓会またやりましょう」

指切りげんまんで別れました。

 

スキー合宿

 

皆さんとの時間はどれをとっても

素晴らしい思い出ばかりです。

 

その中のひとつにマヤが初めてのスピードを

味わったスキー合宿があります。

 

蔵王スキー場、白銀世界が迎えてくれました。

娘は東京のマンションから遠出するなど

殆どありません。まして大雪原など!

 

その喜びようと言ったら、両手を鳥の羽根

のように羽ばたかせて、足をバタバタ

止まりません。抱いてリフトに乗せるのが

怖いくらいの興奮でした。

 

あとから学生さん曰く、「でもさ、お母さんが

リフトで「おぉーつ」とか「「うわぁーつ」

とか「そっちのほうがびっくりしたなぁ」

 

そうなんです。超多忙な毎日を過ごして

いるので、こんなに美しく爽快な別世界

「興奮の絶叫」でしか表わせなかったのです。

 

涙ながらに思い出します。

 

ありがとうございました!

 

娘にとってボラさんたちは現実世界 

ボラさんにとって娘は未知の世界

 

介助なくしては何もできない娘は

外の世界をほとんど経験できず

特殊学級のお友達とも気軽に

行き来はできませんせした。

 

昨日まで赤の他人だった方々の

「こんにちわぁ」の声をどれだけ

待ちわびたことか。

 

見知らぬ人を伴い4~5人のこともありました。

楽しそうなおしゃべりを耳にするだけで

活気ある現実世界が出現しました。

 

娘が書くエッセイをもとに真剣に話したり

数学を教わったり、絵を描いたり

人生論をレクチャーされたり。

 

マヤが「鬼ババアがさぁ、うるさくて」と愚痴

「そうでしょ、うちもそう」とこぼす

そんな場面が何度もありました。

 

 

そのグループの卒業が近づき、後輩さんと

入れ替わる時期になると

 

「マヤちゃんとすごく楽しかった。」

「生き方を考えさせられた」

「勇気と励ましをもらった」

「人生を達観しているマヤちゃんを見て

私も覚悟が決まりました」

 

などと別れの言葉を贈ってくれました。

 

ボラのみなさんにとって

マヤのような重度の障害児は

人生初めて出会う未知の世界だったのです。

 

 

私たちもみなさんに出会えて

嬉しかった。幸せでした!

 

ほんとうにありがとうございました!

 

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

シイラ慈子(しげこ)