血の系譜(一度目の終戦)
逃亡に成功したか否かは別にして私は 両足ギブスに骨盤の牽引までされて一年入院した。
その年に小さんの叔母は亡くなった。
ぐちゃぐちゃになった踵と歪んだ足首はなかなかくっつかず、飽きて退院して前座や二つ目の仲間に面倒みて貰い、歩けるようになったのは次の年の夏だった。
あまり3階からは飛び降りない方が良いと私は学習した。
私は離婚の決意は変わらなかった。
少々事故で遅れたが歩けるようになったから実家に帰り、別れたい訳を話し合い引き取りを頼んだ。
1番理解を示したのが小さんの叔父だった。
『茂子、悪かったな!嬶のはやとちりで』
叔父はそういうとなかなか離婚届けに判を押さない旦那様に師匠である談志さんを呼び出し、
噺家やめるか離婚するか
の強行手段をとり 最初の離婚は55年2月29日となった。
縦社会の現実だった。
夫だった人は4年に一度しか来ないこの日を選んだという。
多分に男性はロマンチックなのだろう。
まだばついち…等の言葉のない時代だから私は人生終わった!
と職探しに勤しんだ。
当時カラオケの珍しい時代に赤坂東急ホテルの地下で舞台に 大画面のカラオケ 音響もしっかりスタンバイされた中での司会で小遣い稼ぎを始めた。
何が嫌というと司会交代に一曲の歌で客席を廻り2番から相手にバトンタッチ。
司会の女性達は司会はイマイチだが歌手志望だった。
歌が大好きで披露する場所を求めていたが 私は歌を披露するほど得意でもなし舞台に上がる客をその気にさせるNHKの『のど自慢』の司会者組だった。
しかしリクエストがくる。
赤坂東急ホテルの珍しいカラオケバーだ。
来るのはオッサンばかりだ。
オッサンは得意分野だ。
香織という源氏名で出ていたが香織にリクエストが多かった。
私の定番は『雨の慕情』『みちづれ』…なんかキャバレーをどさまわりする売れないオバハン歌手みたいだった。
司会業をやめたのは京王プラザホテルのクロークやフロントの教育で
引き抜かれたからだった。
だいたい人生で異業種に飛ぶのが私のお約束だった。
その頃弟は『落語界の新人類』なるキャッチフレーズで相変わらず外車乗り回しナンパの毎日だっただろう。
当時私は28歳しかしバツイチ。
そこに新たな母の野望が待ち受けるとも知らず年下のボーイフレンド達と楽しくやっていた。