縄文系祖神としてのスサノオ
(画像は、神戸・素佐男神社)
金澤成保
牛頭天王と同一視されるスサノオを主祭神として祀る神社は、京都の八坂神社、愛知の津島神社、埼玉の氷川神社をはじめとして、全国各地に5800社あると言われる。スサノオは、イザナギとイザナミの「神産み」の際に、天照大神、月読命とともに生まれた男神で、「葦原中国」の国作りをおこなった国津神・大国主命の祖神とされる。高天原で乱暴狼藉を働き、その後出雲で八岐大蛇を成敗したことから”荒ぶる神”と見なされているが(スサノオのスサは「すさぶ」につながるのだろうか)、どのような神なのであろうか。『日本書紀』『古事記』などを紐解いてみると、スサノオは農耕に依拠せず森を守ろうとした縄文人たちの祖神であったのではなかったかとの想いが浮かんでくる。ここで、そのことについて考えてみたい。ちなみに文中の写真は、神戸市灘区にある「東の祇園さん」素佐男神社である。
日本の基層をなす縄文文化
理化学研究所等による2024年発表の遺伝子解析の研究によると、現代日本人は縄文人の祖先集団、北東アジアに起源を持ち弥生時代に日本に渡ってきた集団、そして東アジアに起源を持ち古墳時代に日本に渡ってきた集団の三集団の混血により形成されたことが明らかにされた。
縄文の祖先比率については、沖縄が最も高い比率(28.5%)を持ち、次いで東北(18.9%)である一方、関西が最も低い(13.4%)と推定された。渡来系との混血が進み縄文人の遺伝子は、ほとんどの現代人が2割未満と低くはなっているが、縄文的資質は日本人と日本文化の根底に受け継がれ、日本の文化的な特異性とユニークさを育んできたのではないか。
食べ物からは、「命」をいただくととらえて「いただきます」と感謝し、鮮度の良い魚介類には「生食」を好み、「命」がみなぎっていた旬の物を尊ぶ。野菜や魚介類、肉を煮込む鍋料理を好むのも、もとはといえば縄文の食文化に端を発しているだろう。神前や牧師の前で結婚式を挙げ、葬式は仏教、クリスマスやハロウィンを祝っても、何の矛盾も感じない鷹揚で多神教的な宗教観。清浄さを尊び、岩石や巨樹から自分用の茶碗や箸など「物」に魂が宿ると見なすアミニズム的な世界観は、縄文文化が現代社会になお息づいている証だろう。他国の宗教や文明が入ってきても、上古からの縄文的特質が破棄されずに継承されてきたことが、「日本らしさ」を育んだのではないか。
農耕を妨害し、獣で穢すスサノオ
天照大神と誓約したのにもかかわらず、増長したスサノオは、高天原で乱暴狼藉を尽くし、それを怒って天照大神が天の岩屋に閉じこもられた経緯が『日本書紀』の神代上に描かれている(『古事記』にも同様の逸話が記されている。以下は、古代日本.com の現代語訳を参照)。
スサノオは、春には天照大神の神田に種を重ね播きし、あるいは田の畔を壊したりした。秋は「まだら毛」の馬を放して、田の中を荒らした。また天照大神が新嘗祭をおこなっておられるときに、こっそりとその部屋に糞をした。また天照大神が神衣を織るため、神聖な機殿においでになるのを見て、「まだら毛」の馬の皮を剝いで、御殿の屋根に穴をあけて投げ入れた。天照大神は大変驚いて、機織の梭(ひ)で身体をそこなわれた。これに怒られ、天の岩屋に入られて磐戸を閉じ、こもってしまわれた。
これらは、田の破壊や農耕の妨害、獣や排泄物を用いて神聖な場所を穢す行為であり、上古の農耕をもっぱらとする社会では「天津罪」として禁ぜられる罪であったとみられる。主に稲作に従事する農耕の民と、非農耕の民、言い換えれば渡来系の稲作農耕民と狩猟採集をもっぱらとしていた縄文人との対立と相克があり、『記紀』神話の重要な説話として描かれたのではないだろうか。
五穀を生む女神を殺したスサノオ
『古事記』(上巻)には、高天原を追放された後スサノオが、食物の女神である大気都比売
(大宜都比売、おおげつひめ)に食べ物を求めた際の逸話が書かれている(『日本書紀』では、月読命と保食神の話として同様の逸話が語られている)。
高天原を追放されたスサノオは、食べ物を大気都比売に求めた(以下は、古代日本.comの現代語訳を参照)。そこで大気都比売は、鼻、口、尻から美味しい食べ物を取り出して、いろいろと調理して整えて差し上げた。スサノオはその様子を見て、食物を穢して差し出していると思って、すぐに大宜都比売を殺してしまった。
殺された大宜都比売の身体からは、頭に蚕が生まれ、二つの目に稲の種が生まれ、二つの耳に粟が生まれ、鼻に小豆が生まれ、陰部に麦が生まれ、尻に大豆が生まれた。そこで神産巣日の御母神は、これらを取って五穀の種とした。スサノオは、養蚕と五穀の起源となる神を殺めたのである。
木の生成と活用、植林を進めるスサノオとその一家
『日本書紀』神代上の一書・第五には、スサノオが主な樹木を生成させ活用させた件について書かれている(以下は、古代日本.com の現代語訳を参照)。
「韓郷の島には金銀がある。もし我が子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」
と言われた。そこで髯を抜いて放つと、これが杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと、桧になった。尻の毛は槇の木になった。眉の毛は樟になった。
そしてその用途を決め、「杉と樟、この二つの木は舟をつくるのによい。桧は宮をつくる木によい。槇は現世の国民の寝棺を造るのによい。そのための沢山の木の種子を皆播こう」と言われた。
このスサノオの子を、名づけて五十猛命という。妹の大屋津姫命。次に抓津姫命。この三柱の神がよく種子を播き、紀伊国にお祀りしている。
とある。同じく『日本書紀』の神代上の一書・第四には、
はじめ五十猛神が天降られるときに、たくさんの樹の種をもって下られた。しかし、韓地には植えないで、すべて持ち帰って筑紫からはじめて、大八洲の国の中に播きふやして、全部青山にしてしまわれた。
このため五十猛命を名づけて、有功の神と称する。紀伊国にお出でになる大神はこの神である。
とある。スサノオは、”荒ぶる神”であるばかりでなく、樹木を生成して樹種の特性に応じた活用をはかる神であり、その一家は植林を進めて各地に豊かな森林を育んだ神々であったとされている。
縄文系祖神としてのスサノオ
縄文文化は、日本文化の基層にあって日本文化を世界の中でも独自なものにしてきた。縄文人と農耕民との交流・混交が進み農耕民の社会が主流となっていくが、縄文的価値観や狩猟採集民の生活感は完全には抹消されることなく『記紀』の中にも、スサノオの姿を借りて描かれたのではないか。農耕を妨害し田を奪う、五穀を生み出す神を殺め、その一方で木々を生み出し森を育む、縄文人たちの農耕社会に対する反抗と森を護ろうとする永い歴史が背景にあるのだろう。土器や埴輪の大量生産、タタラ製鉄の燃料取得のための広範囲な森林伐採は、縄文系の人々の暮らしを圧迫していったことは、「もののけ姫」にも描かれるところである。
縄文人と渡来系農耕民との対立と軋轢は、話し合いや婚姻で平和裡に解消されただけではなく、反乱や戦に至ることが多かったことだろう。”挨拶”にきた弟・スサノオを天照大神が、正規の軍装と剣を整えて迎えた『記紀』の逸話にも見て取れるのではないか。天祖の天照大神の弟として生まれながら、「天津神」とされず、「葦原中国」開拓の神・「国津神」の主祭神である大国主の祖神とされていることにも伺えるのではないだろうか。