藤原鎌足を祀る神仏習合の談山神社

金澤成保 

 

 近鉄桜井駅でバスに乗り、「大化の改新」の功により藤原の姓を賜った中臣鎌足多武峰にお祀りした談山神社を訪れした。藤原氏はその後、天皇家の外戚となって「摂関政治」をおこない、その一族の多くは幕末まで権勢を誇り、貴族文化を担ってきた。談山神社は、幕末までは、多武峯・妙楽寺(とうのみね・みょうらくじ)という寺院であった。談山神社の仏教様式の堂宇は、明治の「神仏分離令」の施行でも護られて今日に継承され、なお朱色の優美な姿を見せてくれる。装飾性豊かな神饌がお供えされることでも知られる。また訪れたい神社となった。

 

談山神社の名称の由来

 飛鳥・法興寺でおこなわれた蹴鞠会において出会った中大兄皇子 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、当社本殿裏山で極秘の談合をした(以下、談山神社のHPより)。『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って日く。鞍作(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策をべよと。中臣連、皇子をいて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されている。

 

(多武峰山中での談合の図。談山神社のHPより)

 

 この談合により、皇極天皇4年(645)、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、天皇中心の文治政治が成し遂げられた。多武峰はこの後「大化改新設合の地」として、「談峯」「談い山」(かたらいやま)「談所が森」と呼ばれるようになり、現在の社号の「談山神社」もこれに由来する。

 

 多武峰はそれ以後、国に大きな災いが起こる際にその前兆として鳴動するようになったとされ、昌泰元年(898)に初めて鳴動したといわれる。その破裂音から「御破裂山」と呼ばれるようになり、慶長12年(1607)までに計35回も鳴動したといわれる。今回「御破裂山」にはじめて登り、「談い山」の地と藤原鎌足の墓をお参りした。

談山神社の歴史

 天智天皇8年(669)、鎌足の病が重いと知った大皇はみずから病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えた。寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の遺骨を摂津国安威(大職冠神社=将軍山1号墳)から大和国の当地に移して改葬し、その上に十三重塔を造立したのが発祥であるとする。

 

 天武天皇9年(680)に講堂(現・神廟拝殿)が創建され、十三重塔を神廟として妙楽寺と号した。大宝元年(701)、塔の東に鎌足の木像を安置する方三丈の祠堂(現・本殿)が建立され、聖霊院と号した。後に本尊として講堂に阿弥陀三尊像(現・安倍文殊院釈迦三尊像)が安置された。

 

 延長4年(926)、国内最古となる惣社を創建し、「談山権現」の勅号が下賜される。これにより、妙楽寺、聖霊院、惣社神仏習合して一体化していった。天暦10年(956)、比叡山延暦寺の末寺となったが、藤原氏の氏寺である法相宗の興福寺とは、領地を巡っての抗争が起こり、焼き討ちをされるという事件が度々起きている。承安3年(1173)には、十三重塔を含む境内全域が興福寺の焼き討ちで焼失したが、十三重塔は文治元年(1185)に再建されたが後に焼失している。中世以降も、度々戦乱や失火に見舞われ、伽藍も焼失・再建を繰り返している。

 

 天正13年(1585)、豊臣秀吉により郡山城下に寺を移すように厳命され、一方で鎌足像の大織冠尊像はそのまま多武峰に残り、こちらは本峰、本寺、古寺と呼ばれるようになって妙楽寺は分裂してしまった。豊臣秀長の体調の悪化により、天正18年(1590)、郡山にあった妙楽寺は帰山を許されて全山多武峰に帰っていった。

 江戸時代に入ると徳川家康の命により、幕府から3,000石余の朱印領が認められた。本殿の造替が繰り返しおこなわれ、幕末には子院33坊、雑役等を担う承仕坊6坊があり、寺領も6,000石あった。

 

 1869年(明治2年)に、「神仏分離令」により僧達は還俗して神職となり、廃仏毀釈がおこなわれて妙楽寺は廃され、数多くの子院が廃絶した。同年。談山神社と改称している。その際、仏堂の破却はおこなわれず、十三重塔をはじめとする妙楽寺の仏堂をそのまま使用することとした。そのため、現在もかつての「神仏習合」の雰囲気を良く残している。摂関家を担った藤原氏一族の始祖である鎌足をお祀りしていた事が、談山神社を特例として「神仏習合」の姿のままが許されたのではないか。

 

談山神社の建造物と境内社

 本殿(旧聖霊院)は、大織冠社や多武峰社とも呼ばれ、嘉永3年(1850)の造替。三間社隅木入春日造の珍しい作りで、日光東照宮造営の手本とされたという。朱塗極彩色の豪華絢爛たる様式で世に名高い。

 

 拝殿(旧護国院(聖霊院の拝所))は、朱塗舞台造の建築で、中央の天井は伽羅香木でつくられている。折れ曲る東西透廊は 本殿を囲む特異な形態をもち、檜皮葺の屋根が美しい。楼門、東西の透廊とともに、永正17年(1520)の再建。

 

 十三重塔(神廟)は、 鎌足公長子の定慧和尚が、父の供養のために白鳳七年(678)に創建した塔婆で、現存のものは享禄五年 (1532)の再建である。現存する世界唯一の木造十三重塔。

 

 神廟拝所(旧講堂)は、寛文8年(1668)の再建。定慧和尚が白鳳8年(679)父・鎌足公供養のため創建した妙楽寺の講堂で、塔の正面に仏堂の特色をもち、内部壁面には羅漢と天女の像が描かれている。本尊であった阿弥陀三尊像は、明治時代「神仏分離」により安倍文殊院に移され釈迦三尊像となっている。

 

 権殿(旧常行堂)は、 永正年間(1504 - 1521年)の再建。天禄元年(970)摂政右大臣・藤原伊尹の立願によって創建され、実弟の如覚、多武峰少将・藤原高光が阿弥陀像を安置した元の常行堂。ここで室町の頃盛行した芸能「延年舞」は有名である。

 


 本殿に向って東西に位置する宝庫は、ともに 元和5年(1619)の再建。同形式の宝庫は、校倉造で元和5年(1619) の造営である。

 

 総社は、延長4年(926)の勧請で、天神地祇・八百万神をまつり日本最古の総社といわれている。現在の本殿は、寛文8年(1668)造替の談山神社本殿を移築したもの。拝殿は、談山神社拝殿を縮少し簡略化した様式で、正面・背面ともに唐破風をもつ美麗な建造物である。

 

 東殿(恋神社、摂社)は、若宮とも称す。元和5年(1619)造替の談山神社本殿を移築したもの。「えんむすびの神」として信仰があつい。比叡神社は、寛永4年(1627)造営の一間社流造、千鳥破風および軒唐破風付、桧皮葺の小社ながら豪華な様式をもつ。もと飛鳥の大原にあった大原宮で、ここに移築し明治維新までは山王宮と呼ばれた。以上の主要建築は、重要文化財に指定されている。

 

 境内には、龍ヶ谷に龗神社(おかみじんじゃ)と瀧があり、水神・龍神として崇められている。
古神道の霊地で、神聖な岩に、天上から神を迎え、祭祀をおこなっていた。この瀧は、大和川の源流の一つであり、神聖な神の水とされてきた。岩上のやしろは、飛鳥時代に大陸から龍神信仰が入ってきて、わが国の水神(たかおかみの神)と集合し、龍神社と呼ばれるようになったと伝わる。

 

 そのほか、如意輪観音堂、宇賀魂命、菅原道真公、市杵島姫命を祀る三天稲荷神社、末社の春日社杉山神社、神明神社、稲荷神社、山神神社、祓戸社むすびの岩座、厄割り石、「摩尼法井」と呼ばれ、龍王の出現があったと伝えられている閼伽井屋(あかいや、重文)が祀られている。