巨石信仰の磐船神社

 

金澤成保 

 

 京都の南方、大和と河内の境域にある磐船神社をお参りした。山峡にあるが、「天の磐船」と呼ばれる舟形の巨石を御神体とする原初的な信仰を今に伝えている。京阪私市駅から旧・磐船街道を45分ほど歩くと、天野川の渓谷沿いに鳥居と「天の磐船」の巨石を背負ったような拝殿が迎えてくれる。険しい岩窟めぐりを成し遂げると、生まれ変わると云われており、近年パワースポットとしても注目を集めている。

 

天の磐船

 物部氏の始祖とされる饒速日命(にぎはやひのみこと)が、高天原より降臨に際し乗ってこられたとされるのが「天の磐船」である(以下、磐船神社のHP参照)。一部が地中に隠れた「磐座」ではなく、独立した巨石(高さ12メートル、幅12メートル)で、他の石と絶妙のバランスを取りながら天野川の上に蔽い被さっている。その姿には、天から降りてきたと言う神話を納得させる迫力がある。磐の舳先部分には大阪城築城の際、石垣の材料としようと試みて失敗した加藤清正の名前が彫られているが、風化のため現在では見ることが出来ない。

 物部氏が天野川流域を中心に農耕開発をおこなったのは、3世紀の終わりから4世紀の初頭と見られ、この地域には同じころ大和王権に近い勢力の古墳が造営され、渡来系氏族の入植がおこなわれている。近隣の神宮寺の地域には、さかのぼって縄文時代の遺跡が出ている。磐船神社を中心とする巨石群は、先史時代からこの地の人々によって「磐座」として崇められてきたのではないか。わが国では、神話上の人物や偉人、祖先を祀った信仰よりはるかに以前から、神威を感じさせる岩石神の依代として崇める自然信仰が広くあったからである。山間の古社には、社殿のほかもともとの御神体として「磐座」を祀る例が多い(関連する事例をリブログしました)。

 

 山中にあって巨石が船に見立てられらのは、天津神の子孫である大和の王統が「海人族」と深く結びついていたことが背景にあるのではないか。神武天皇の母親は、豊玉彦の娘の玉依姫であり、祖母や曾祖母も含み「海人族」の姫が3代に渡って続いている。第26代継体天皇もまた、「海人族」の安曇氏の拠点である安曇川が琵琶湖に流れ込む近江高島出身で、継体天皇が築いた三つの宮も、河川交通との関わりが深い。「海人族」の協力がなければ「神武東征」も百済・白村江への軍団の派遣もできなかっただろう。「舟形木棺」や「舟形石棺」が前期古墳時代に出土するが、伊勢神宮では「船代」(ふなしろ)と呼ばれる舟形の容器が「霊代」の入れものとなっている。物部氏の没落後、磐船神社や近隣の星田神社住吉神社に「海人族」の住吉四神が祀られたのは、この地域の西を流れる淀川が、奈良や京の都へ穀物や木材などの物資を運ぶ河川交通の幹線となったことと関係しているのではないだろうか。

 

磐船神社の由来

 当社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明櫛玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が「天の磐船」に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね、磐船神社では、この神社一帯の山地がそれだとして「いかるがみね」と呼んでいる)に降臨されたとの伝承が『先代旧事本紀』にある。交野に勢力を保っていた肩野・物部氏という物部氏の傍系一族の氏神であり、この一族が深く関わっていたとされている。

 

 しかし、物部守屋が「丁未の乱」で蘇我馬子に敗れて滅びると、物部氏自体の勢いも弱まり肩野・物部氏は交野から一掃されて当社は衰退した。以降は当社を総社としていた私市、星田、田原、南田原の四村の人々によって護持された。

 

 中世以降は、山岳信仰や修験道の行場とされ、北峯の宿・岩船の宿として栄えた。また、「天の磐船」から航海の神様である住吉三神を祀る住吉信仰が当社に入っている。これには住吉大社の神主であった津守氏が饒速日命の子孫であったのも関係しているとの説もある。現在も境内には垂迹神の住吉大神の四体が連なる本地仏の石仏や不動明王石仏を初め「神仏習合」の影響が色濃く残されている。その後、度重なる天野川の氾濫により社殿、宝物などの流失が続いて衰微した。昭和のはじめの頃には、御神体をはじめとする巨石群と小さな祠が残るばかりの状態であったが、御祭神の御神威を仰ぐ多くの人々の奉賛を得て、社殿その他を整備し、御祭神も元に正し、現在の姿に復興されたものである。

 

岩窟めぐり

 「天の磐船」に隣接して折り重なる巨石群の間を踏破する「岩窟めぐり」を、行の一環としておこなうことができる。ただし、安全のため一人での拝観はできない。社務所で注意事項を了承した上、受付書に署名して500円の拝観料を納めると、磐船神社と書かれた白のタスキをいただく。バッグや所持品、ポケットの中の物も、落とすと拾い上げることができないので社務所に預けた。

 

 運動に適した服装滑りにくいスニーカーで行くことも必須である。前日の雨で洞窟内も濡れているため午前中まで拝観中止であったが、幸運にも晴れて中止がとけて「岩窟めぐり」をおこなうことができた(ただし岩窟内は、写真撮影禁止)。

 

(写真は、交野市観光協会のサイトより)

 

 巨岩が頭上に迫り洞窟のような暗がりの中、岩に描かれた白の矢印に従って、岩の間を体をくねらせてくぐり抜け、ところどころ細い木橋を注意しながら渡ったあと、岩の上を滑り落ちるような道のりで、険しいところも多い。衣服が汚れることも了解の上である。修験道の行場であったところで、非日常的な経験ができ、踏破したら生まれ変われるとの言い伝えも納得できる。途中足を滑らせたので、残念ながら踏破を断念した。成就すると、社務所で懸けていた袈裟のタスキに修了の印を押していただける。今度来るときは、「岩窟めぐり」をやり遂げます!

 

(写真は、交野市観光協会のサイトより)

磐座めぐり

 「天の磐船」の巨石のほか、特異な岩石神霊の依代として祀られている。「岩窟めぐり」の先には、「天の岩戸」があり、三つの巨石が扉の様に組み合わさり、手力雄命のような力持ちがいれば開けられそうにも見える。 岩戸に向かってお参りすると丁度伊勢の神宮の方向になるといわれている。

 

(写真は、交野市観光協会のサイトより)

 

 拝殿の左の岩には、不動明王が岩に彫り込まれている。「天文十四年十二月吉日観請開白大蔵坊法印清忍」との銘が刻まれている。戦国時代に天下太平を祈願し彫られたものと考えられる。

 

 天野川の渓流を挟んだ岩には、住吉四神の本地仏とされる大日如来・観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩の四仏体が小さな石仏として彫り込まれている。住吉信仰がこの神社に入ってきた証であり、「神仏習合」の名残を示すものでもある。

 旧磐船街道から、当神社に向けて少し入ると朱色の鳥居があり、滝が流れ落ちる岩場が現れる。神道では心身の清浄が重要視され、神事の前にはがおこなわれる。この滝は、「白竜の滝」と呼ばれる禊場であり、修験道の滝行の場となっている。八大龍王の碑や不動明王の像などが祀られている。