播磨の「石の宝殿」、生石神社

金澤成保 

 

 

 兵庫県高砂市の、「石の宝殿」とよばれる巨石遺構を御神体とする生石神社(おうしこじんじゃ、鳥居の扁額には「生石子神社」と記されている)を訪れた。岩石信仰の対象となった他の「磐座」とは異なり、明らかに人の手で立体整形された巨石が御神体とされている点に興味を持ったからだ。下部に深く切り込まれたくぼみに溜まった水によって、水面に浮かんでいるようにも見えることから、「浮石」とも呼ばれ、宮城県鹽竈神社の「塩竈」、宮崎県霧島東神社の「天逆鉾」とともに「日本三奇」の一つとされている。

 

 「神輿合わせ」と呼ばれる2台の神輿の練り合わせ・ぶつけ合いをおこなう勇壮な祭りでも知られる。JR神戸線の宝殿駅を、西に30分ほど歩いた山腹にあり、石の鳥居と山門に通ずる急な直線階段が出迎える(緩く蛇行する「女坂」もある)。

 

生石神社の由来と建築

 社伝では、崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していたとき、「石の宝殿」に鎮まる二神が天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地に生石神社が創建されたとしている。二神とは、大穴牟遅命(おおあなむじのかみ、大国主神の別名とされる)、少毘古那命(すくなびこなのかみ)である。

 「石の宝殿」は、この地で切り出される「竜山石」の岩盤を掘り込んだ遺構で、幅約6.5m,高さ約5.6m,奥行約5.6mの直方体で,後面に三角形の突起部が付き重量は推定465トンで,その云われについては諸説あるが、7世紀の横口式石槨を制作しようとした跡との説が有力である。

 

 「石の宝殿」について『播磨国風土記』には「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う」と記されている。8世紀初期には、6~7世紀ごろに人の手で造られたと考えられていたことになる。

 

 『播州石宝殿略縁起』には、「神代の昔、大穴牟遅少毘古那が国土経営のため出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが、当地の阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った」の伝説が伝わっている。

 

 天正7年(1579)、羽柴秀吉が三木合戦の折、当神社を陣所として貸与するよう申し出たが、拒否されたために焼き討ちに逢わしている。焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いの時に西軍の勇将・大谷吉継が陣鐘として使用した。敗戦の結果、徳川家康が戦利品として美濃国の安楽寺に寄進している。

 

 鳥居をくぐり、急階段の参道を上りきると、中央に通路を設けた珍しい構造の「本社」が現れる。その通路の奥に鎮座するのが巨石遺構の「石の宝殿」。「本社」は、流造の屋根を持つ木造建築で、棟札から天保15年(1844)の建築と知られる。文化4年(1807)に焼失したのち再建され、昭和54年(1979)に屋根は、檜皮葺から銅板葺に変更されている。「石の宝殿」を御神体とするところから、「本社」は拝殿とも呼ばれ、中央に通路を持つことから、その形式を「割拝殿」と称されている。

 

 境内には、祖霊社、琴平神社、恵美須神社、加志磨神社の四社が、同一の建物に祀られている。「石の宝殿」の「分岩」といわれる、高さ約3mの霊岩。全身の力を込めてこの霊岩を押した手で体を撫でると、霊岩に宿る神様より力を授かり、ご利益があるといわれている。

 

竜山石採掘遺跡

 「石の宝殿」を含む竜山石採掘遺跡が国の史跡に指定されている(以下、「文化遺産オンライン」のサイト参照)。竜山石採掘遺跡とは、瀬戸内海に注ぐ加古川西岸河口近くの「竜山石」と呼ばれる凝灰岩からなる古墳時代から現代に至るまでの採石遺跡で、「石の宝殿」は生石神社の御神体となっている。12世紀の文献では,「生石大神」と記されて人知の及ばないものとして信仰の対象となり、近世には延べ140名の西国大名らが参詣し,シーボルトが著書『日本』にスケッチを掲載している。

 


 「竜山石」の採石は古墳時代に始まり、前期古墳の石室材、中期には巨大古墳に採用された長持形石棺の石材、後・終末期には家形石棺の石材となった。権力者の石棺に用いられ、「大王の石」と呼ばれている。古代には京都府・恭仁宮の礎石建物、中世では石塔、板碑、石仏などの石造物に、近世には木造建築物の基礎石や、墓標・道標・鳥居などの石材となった。

 


 「竜山石」は古墳時代から現代まで採石活動が行われており、なかでも「石の宝殿」は7世紀の採石技術を知る上で希少な遺構で、中世までには生石神社が創られ、信仰の対象となり、現代に至る稀有な例でもある。しかも、採石活動は時代ごとに用途や流通の範囲を変えながら生産・加工され、採石技術の変遷と流通の変化を知る上でも重要である。

 

 現代の石工によると「石の宝殿」は、現代の技術をもってしても、あれだけの大きな石を切り出すのは非常に困難な作業で、当時の道具と手法と考えると、かかる年月も含めて想像を絶する(power stone Tatsuyamaのサイト参照)。多くの人を率いてこの作業を指揮した石工頭は、いわば「石と会話する」ことができる能力で岩の「石目」を見つけて「石の宝殿」の下部を切り込んでいる。「石の宝殿」全体を切り出し、山の斜面を転がし落として麓で加工し加古川まで運び、船に載せて運搬しようとしたのではなかろうか。