水神の聖地、室生の龍鎮神社と海神社

金澤成保 

 

 

 「ふるさと元気村」で、フランス・ブルターニュ地方の郷土料理・ガレットをいただいた後、タクシーを呼んで室生ダムにそそぐ深谷龍鎮渓谷の龍鎮神社を訪れた。パンフレットに紹介された龍鎮神社の滝や滝壺を見て、室生の水の神々をお参りするには、欠かせない場所だと思ったからだ。このエリアは、室生火山群が約1万5000年前の火山活動で作り出した自然景観が美しい「室生赤目青山国定公園」の一角で、深谷龍鎮渓谷の清らかな水辺は奈良県が選定する「やまとの水」にも選ばれている。

 

(龍が身をくねらせて滝壺に潜ろうとしているかのように見える「龍鎮の滝」)

 

 龍鎮神社から徒歩で、室生寺の「西門」とされる大野寺とその「弥勒磨崖仏」を訪れ、その後、海神社にお参りした。室生の山間地に「海」の名が冠される神社が祀られているのも不思議だが、鮭の漁獲や舟を建造するための木材の確保、あるいは水運への従事のため、河川を遡って内陸に進出したと考えられる古代「海の民」の例(例えば信州の安曇氏、諏訪神社)がある。龍鎮神社へは、近鉄・室生口大野駅から徒歩40分ほどで、大野寺海神社は駅に近く、ハイキングがてらに歩いていける。

 

龍鎮神社と「龍鎮の滝」

 タクシーで、赤い欄干に擬宝珠のついた「龍鎮橋」に乗りつけた。橋を渡ると左に渓谷へと向かう道があり、その鬱蒼とした遊歩道をしばらく歩く。渓谷には、岩の間を澄み切った清流が流れおち、反対側には「柱状節理」の隆起した溶結凝灰岩が苔むしている。その神秘的な雰囲気は、渓流から立ち上る爽やかな冷気を「霊気」に感じさせ、この地が龍神の住処であることを納得させる。途中、目の前を小さな蛇が体をうねらせながら横切った。龍神が姿を変えて、挨拶してくれたのだろうか。

 

 遊歩道を歩いていくと、やがて石の鳥居が見えてくる。これが龍鎮神社の入口である。龍鎮神社は、後で紹介する海神社が雨ごい祈祷のために約500年前の安土桃山時代に創建した境外摂社だが、それ以前からも自然崇拝の場、水神の聖域として神聖視されていたと考えられている。

 


 階段を渓谷に降りると、龍鎮神社拝殿の小屋と、川を挟んでその反対側に小さな鳥居が見えてくる。川の透明度も抜群で、川底の岩がはっきりと見え、川の上には注連縄が張られ、神聖な雰囲気を醸している。神社のご祭神は、龍神として知られる高龗神(たかおかみ)。高龗神は、龍神総本宮とされる吉野の丹生川上神社上社のご祭神としても知られる。

 

 そして拝殿のかみにあるのが、ご神体ともいうべき「龍鎮の滝」。滝そのものは落差約4mの「渓流瀑」だが、龍神が棲むという楕円形の滝壷は、底まで透き通った清らかでエメラルドグリーンコバルトブルーに見え、龍神の住処で古来祈祷がおこなわれてきた聖域にふさわしい。龍神といえば厳しく怖い神様であると考えていたが、ここ龍鎮神社では優しく穏やかに迎え入れられたような気持ちになり、しばらく水際に佇んでいた。

山間の海神社

 近鉄・室生口大野駅の南東、旧伊勢街道より少し分かれたところに、海神社(かいじんじゃ)が祀られている(以下「神奈備」のサイトを参照)。大和国には、名前に海がつく神社が6社あるといわれ、当神社の横を流れる宇陀川が木津川・淀川を経て大阪湾につながっていることだけでは、名前の説明にはならないだろう。

 

 一説には、古代当地に「海人族」が移り住んだことによるといい、古墳にみられる渡来文化流入の痕跡もこのことを裏づけるとも思われる。海神龍神に転化し信仰されることが、一般的にあったとみられており、当社でも、現本殿に波涛を描いた壁画が残されていることからすると、ここでは龍神は海に座すとして信仰していたとも推測される。

 

 創祀・沿革については明らかでないが、伝承によれば室生龍穴神社から龍神を勧請したといい、龍穴社と同様、祈雨神とされている。主祭神は、海神の娘・豐玉姫命で西面して鎮座しており、ほかに天照大御神、善女竜王、九頭竜大明神、牛頭天王を祀っている。


 御神躰遷座中の神像調査により、多くの神像の中に鎌倉時代の狛犬一対と、鎌倉時代にも遡り得る神像1躰存在することが判明している。江戸前期の建築と思われる本殿は、三間社流造檜皮葺であるが、平面的にはそれぞれ完結した一間社二棟を「相の間」で並列に接続した形態。これに一連の流造の屋根を架け、各殿の上に千鳥破風を設けている。 当初は一間春日造であったといわれている。

 

大野寺と「弥勒磨崖仏」

 大野寺は、真言宗室生寺派の寺院で開基は役小角と伝える。室生寺の「西の大門」とされ、宇陀川岸の自然岩に刻まれた「弥勒磨崖仏」や枝垂桜の名所としても知られる。空海が堂を建立して「慈尊院弥勒寺」と称したとも伝わるが、創建の経緯については明らかでない。室生寺と同様、興福寺と関係の深い寺院であったと考えられている。本尊の木造・地蔵菩薩立像(重要文化財、鎌倉時代)は、無実の娘を火あぶりの刑から救ったという伝説にちなみ「身代わり地蔵」とも呼ばれている。

 

 

 宇陀川を挟んだ対岸にある「弥勒磨崖仏」は、興福寺の僧・雅縁の発願により、承元元年(1207)から制作が開始され、同3年に後鳥羽上皇臨席のもと開眼供養がおこなわれたものである。高さ約30mの大岩壁に刻まれ、高さ13.8mにわたって光背形に掘り窪め、その中を平滑に仕上げた上で、像高11.5メートルの弥勒仏立像を線刻で表されている。

 

 作者は宋から来日した石工・伊行末の一派と考えられている。山城国笠置山にあった弥勒の大石仏を模したものである。像の向かって左手の岩壁下方には円形の区画内に「種子曼荼羅」(尊勝曼荼羅)が刻まれている。1934年(昭和9年)に国の史跡に指定されている。