長谷寺の鎮守社、與喜天満神社

金澤成保 

 

 奈良・初瀬を訪れ、長谷寺とともに、その鎮守社であった與喜天満神社をお参りした。初瀬・泊瀬は、菅原道真公の先祖の地であったことから道真公をお祀りしたのが與喜天満神社であるが、この付近一帯は、大和の神体山である三輪山背後・東方の山峡にあり、当社と長谷寺のほか素盞雄神社・鍋倉神社・玉鬘神社などがあり、初瀬・泊瀬が、古代大和の人々にとって太陽が昇る東方の聖なる領域であったことがその立地の理由ではないか。長谷寺を参拝するなら、與喜天満神社もお参りすることをお勧めします。

 

大和の東方、アマテラス・女神を祀る初瀬の地

 初瀬・泊瀬の一帯は、西方を大和平野に向けて開く山峡の地である。大和平野から見れば、長い谷の奥まったところにあるところから、古くから「隠国」(こもりく)、「隠口」(こもくち)などと言われてきた。『万葉集』(巻七、1095)に、

 

     三諸つく 三輪山見れば 隠口の 泊瀬の檜原 思ほゆるかも

 

の土地讃めの歌があるが、「神が宿る三輪山を見ると「隠口の泊瀬」の檜原が思い出される」と歌われ、古来この地が神体山・三輪山と一体として認識されていたことが、示唆されている。

 

 長谷寺門前町を歩むと、正面に緑濃い常緑樹の山容が迫る。国の天然記念物に指定されている與喜山で、古くから樹木類の伐採が一切禁じられていた聖域であり、古くは大泊瀬山とも呼ばれ、古代大和の国では最初に太陽の昇る神聖な山としてあがめられていた。その中腹に鎮座するのが、 與喜天満神社である(以下、與喜天満神社のHP参照)。

 

 万物の生命のみなもとである太陽と母なる慈愛を神としてあがめたのが天照大神で、社伝では天上からこの與喜山にはじめて降臨されたと伝えられる。 現在の本殿の向かって左に古代信仰のままに磐座(鵝形石)に祭られているのが天照大神で、太陽神・女性の守護神として信仰されている。 

 

 その後方には、式内社の鍋倉神社が磐座に祭られている。 ご祭神は、大倉姫神(別名・下照姫)と、『古事記』では大国主命の娘で、その美しさは、衣を通して地を照らすほどであったと言われている女神である。

 長谷寺に下りる途中に、やはり祭神を女性の玉鬘姫命とする玉鬘神社が祀られている。 玉鬘は、『源氏物語』に登場する美貌の姫で、與喜山の西の山裾(現在の素盞雄神社の上)に玉鬘庵があったと言われたことから、近年建立された。

 素盞雄神社は、神殿大夫武麿が與喜天満宮を創建した時、“与喜山は天照大神降臨の山であり、その弟神の素盞雄命の霊を鎮めなければならない” として社殿を構えたのが始まりといわれる。境内には、高さ約40m、幹の周囲は約7mもある、県下最大の「初瀬のイチョウの巨樹」(県指定天然記念物)がそびえていて圧巻である。


 天武天皇は、皇女の大来皇女を伊勢神宮の斎王とするために、この地に「泊瀬斎宮」という潔斎の施設を設けたことが、『日本書紀』に記されている。 皇女がこの地を経て伊勢に向かうのは、初瀬が伊勢神宮の信仰の出発点と見られていたからではないか。 その太陽信仰の原点が與喜山に伝承していることからも、「泊瀬斎宮」は、初瀬川を禊ぎの川とする與喜山にあったと考えられる。当山には、このような太陽神・女性神の信仰が古代から息づいていた。

 

道真公を祀る與喜天満神社

 初瀬は、道真公の遠祖・野見宿禰の故郷であった。宿禰はここ初瀬の出雲の出身で、菅原氏の出自となる土師氏の臣姓を賜っている。道真公は、藤原一族による朝廷支配の中、右大臣まで累進したが、大宰府に左遷されて亡くなった。生前の功績とその至誠の心から人々に敬われ、 道真公をお祀りされたのが当社である。衣冠束帯姿の「怒り天神」とも呼ばれる木造天神坐像が、当社に護られてきたが(現在は奈良国立博物館に寄託)、像内に「正元元年」(1259年)の銘があることから、現存する国内最古の天神像の彫刻とされている。

(木造天神坐像写真は、與喜天満神社HPより)

 

 社伝によると寛平のころ(890年ごろ)、樵夫が與喜山で仕事をしていた時、小屋に誰かが「これを祀れ」の声が聞こえると木像が落ちていた。 そのころ長谷寺に菅原道真公が参詣に来られていたので、樵夫はその像は公の御作として大切に祀った。 それが上記の木造天神坐像と伝えられている。


 天慶9年(946)、この里の神殿太夫武麿の夢に高貴な翁が現れ、2日後、自宅の前の石の上に翁が座っていた(現在の切石御旅所の地)。 翁が長谷寺へ参詣に向かうので武麿もついて行くと、 翁は川で禊ぎをして(現在の中の橋詰め御旅所の地)、十一面観音と瀧蔵権現に参ると、急に黒雲が湧いてきてその翁を包んだ。 すると、翁は立派な衣冠装束姿となり「私は右大臣正二位天満神社菅原道真」と名乗り、「私はこの良き山に神となって鎮座しよう」と語って神鎮まりした。 これが與喜天満神社の始まりで、與喜という神社号は、瀧蔵権現が道真公の神霊に「良き地」だと述べたことから起こったと言われる。 「吉のお宮」と呼ばれる由縁である。天暦2年(948)、武麿は神殿を建立した。 これが與喜天満神社の創祀である。

 

 

 與喜天満神社は、道真公をお祀りしたお宮であったこともあり、芸能文化の源郷ともなった。鎌倉時代の末ごろから「天神講連歌会」が開催され連歌同好の地ともなった。お宮に向け初瀬川に架かる朱塗りの橋は、このことに因んで「連歌橋」と名づけられている。また、能楽や連歌など諸芸の達人であった能阿弥が、與喜天神を深く信仰し、 慕ってこの地で亡くなり、能楽師の金春禅竹は、その著書『明宿集』に、自分たちの祖先・秦河勝初瀬川の河上から流れてきた壺の伝承を記している。與喜天満神社は、能楽発祥のひとつの聖地と考えられている。当社の大祭である「初瀬まつり」は、天満神社の鎮座する與喜山から下る神輿の巡幸で、近世の奈良では春日大社の「おん祭り」に次いで盛大な祭典として知られていた。