大観音を足下から拝む長谷寺

金澤成保 

 

 

 本尊の十一面観音が春の特別公開で拝観できると知り、奈良・桜井の山中、初瀬にある長谷寺を久方ぶりにお参りした。近鉄大阪線の長谷寺駅に降り、北に20分ほどのところである。古代より「花の御寺」として知られ、春は牡丹の名所ともなる。「舞台造り」の本堂からの眺望も美しい。初瀬は、「泊瀬」「泊(ハ)つ瀬」の意で万葉集にも歌われ、 大阪湾から大和川をさかのぼり、さらに初瀬川をさかのぼった終点、舟の泊(ハ)つるところであったのが、初瀬、長谷の由来である。神体山・三輪山の東方に当たり、太陽が最初に大和国に昇るとされた神聖な地でもある。

 

本尊・大観音の特別拝観

 国宝・本堂の中に入り、普段は立ち入れない内陣、さらに本尊を囲む内々陣に進み、本尊の十一面観音菩薩のお御足に直接触れてお参りできた。入堂の際は身を清めるために、塗香を塗り五色の紐を編んだ腕輪「五色線」をいただいた。本尊は、木造の三丈三尺六寸(10.18m)の長大な仏像で、その御慈悲に包み込まれるようで感動した。右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大磐石という台座に立つ、いわゆる「長谷寺式」の観音菩薩で、重要文化財である。

 

 開山・徳道上人が造立して以来、度重なる火災により再造を繰り返し、現在のご尊像は、室町時代の天文7年(1538)に大仏師・運宗らによって造立された。内陣には、徳川家のご位牌や弘法大師をはじめ長谷寺ゆかりの高僧像などが安置され、阿弥陀如来が衆生を極楽へ導く様子を極彩色で表した阿弥陀如来二十五菩薩来迎図の壁画も描かれ、日光菩薩、月光菩薩、十二神将を従える薬師如来像曼荼羅などにも感動する。

 

(本尊・十一面観音菩薩。写真はOtonamiより)

 

 本尊の特別拝観に加えて、本坊・大講堂で、本尊を描いた16mを超える「大観音大画軸」をスキャンした、本物と寸分違わない高精彩のプリント画が公開された。明応4年(1495)に罹災した本尊・十一面観世音菩薩を復興再建するため設計図として作られたと伝えられ、本尊のほぼ原寸大に描かれている。大画軸は、高さ16.5m、横幅6.2m、展示方法も真に迫るよう観音様のお顔を間近で見られるようにしてある。また、大画軸公開に合わせ『長谷寺縁起絵巻』(複製)と、NHKの大河ドラマ『光る君へ』に因んで『源氏物語』に登場する女性、『玉鬘(たまかずら)』にゆかりのある玉鬘観音像も特別展示された。

 

(写真は、長谷寺YoutTubeより)

長谷寺の由来と建築

 長谷寺の由来寺伝によれば、創建は天武天皇の朱鳥元年(686)、僧の道明が初瀬山の「西の丘」(現在の本長谷寺の地)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727)、僧の徳道が聖武天皇の勅命により「東の丘」(現在の本堂の地)に本尊・十一面観音像を祀ったというが、伝承の域を出ないとされる。記録によると9世紀半ばには、長谷寺も官寺と認定されて別当が置かれたとみられる。『枕草子』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある「玉鬘の巻」のエピソード中に登場する「二本(ふたもと)の杉」は現在も境内に残っている。

 

 長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集め、藤原道長も参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。創建当時の長谷寺は東大寺の末寺であったが、平安時代中期には興福寺の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興された新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。

 

 

 天正16年(1588)、豊臣秀吉により根来寺を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正・専誉により真言宗豊山派が成立していった。この後、本堂は焼失したが、徳川家光の寄進によって慶安3年(1650)再建された。寛文7年(1667年)には、徳川家綱の寄進で本坊が建立されたが、1911年(明治44年)に表門を残して全て焼失した。1924年(大正13年)には再建されている。

 門前町初瀬の参道脇には、「西国三十三所観音霊場」をつくるよう閻魔大王から託宣されたと伝わる徳道が創立したといわれる番外札所法起院(徳道上人廟)があり、初瀬川を渡るとかつて長谷寺の鎮守社であった與喜天満神社がある。現在の長谷寺は、真言宗豊山派の総本山で西国三十三観音霊場第8番札所でもある。

 

 馬頭夫人の伝承長谷寺には、唐の馬頭夫人(めずぶにん)の逸話が伝わっている。「長谷寺験記」によれば、陽成天皇の御代(876〜884)、唐国の僖宗(きそう)皇帝の后に馬頭夫人がいた。夫人は、顔が長く馬に似ていたが情が深く、奥ゆかしい様子であったので、王は優美に思い寵愛した。他の数多くのお后方は馬頭夫人を妬み、日中に宴を催して夫人の容貌を白日にさらし恥をかかそうとした。夫人が、素神という仙人に相談すると、日本の長谷寺においでになる観音様が極位の菩薩であるといい、東方に向かい悲願を念じ、香華を備えて、祈願なさるようにと諭した。

 

(馬頭夫人像。写真は長谷寺提供)


 馬頭夫人が、教えに従い真心をこめて祈願をすると貴い僧が現れ、手にしていた瓶水を注ぐと、夫人は威厳のある、女性らしい美しい顔立ちに変わっていた。憎み妬んでいた后たちも、美しい夫人の様子を見て、かえって仲睦まじい付き合いをするようになり、王の寵愛はますます深いものとなったという。夫人は、伽藍を守護する「護法善神」となり観音様に奉仕し、衆生に恵みを施すとの誓いを立て、海辺から種々の宝物を入れた小舟を海に浮かべ流した。その小舟は、明石の浦に着いて長谷寺にもたらされた。長谷寺は、馬頭

夫人を神名帳に名を入れ、鐘楼堂の東に社(馬頭夫人社)を造って夫人を祀っている。寺内の言い伝えでは、馬頭夫人の送った宝物の中に牡丹の種があり、今の境内を飾る牡丹はこの故事によるといわれている。

 

 長谷寺の主な建築初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは400段近い登廊(のぼりろう)を上る。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。本堂が国宝に、仁王門、登廊5棟、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。

 

 

 仁王門は長谷寺の総門で、三間一戸入母屋造本瓦葺の楼門。重要文化財である。両脇には仁王像、楼上に釈迦三尊十六羅漢像を安置する。現在の建物は明治27年(1894)の再建、「長谷寺」額字は、後陽成天皇の御宸筆。

 現存の本堂は8代目で、徳川家光の寄進を得て慶安3年(1650年)に竣工、国宝である。本尊の十一面観音菩薩(重要文化財)を安置する。全体の平面規模は、間口25.9m、奥行27.1mの巨大な建築で、平面構成・屋根構成とも複雑だが、本尊を安置する「正堂」(奥)、参詣者の為の空間である「礼堂」(手前)、これら両者をつなぐ「相の間」の3部分からなる。「正堂」は一重裳階付きの入母屋造平入り・本瓦葺きの身舎で、前面は京都・清水寺本堂と同じく「懸造」(舞台造り)になっている。

 

(正面から見た本尊の十一面観音菩薩。写真はOtonamiより)

 

 本尊に向かって左には、初瀬山を守護する八大童子のひとりで、天照大神としても信仰されている雨宝童子立像が、頭髪を美豆良に結って冠飾をつけて裳を着し袍衣を纏っている。

 

(写真は、長谷寺HPより)

 

向かって右には、本尊造立の際に影向した八大龍王のひとりで春日明神としても信仰されている難陀龍王立像が、頭上に龍を頂き、唐冠を被った老貌で中国風の服を着ている。これらの脇侍は、いずれも重要文化財である。

(写真は、長谷寺HPより)

 

 本坊は、庫裏、書院、根本道場となる大講堂などからなる複合建築で重要文化財。寛文7年(1667)徳川将軍の寄進で建立されたが、現在の堂宇は大正13年(1924)に再建されている。

 

 

 登廊は399段、5棟よりなり、重要文化財。長暦3年(1039年)に春日社の社司・中臣信清が我が子の病気平癒の御礼で寄進したとされるが、現存するものは近世以降の再建である。

 

 本長谷寺は、天武天皇の勅願により、道明上人がここに精舎を造営したことから、今の本堂(今長谷寺)に対し「本長谷寺」とよばれている。朱鳥元年(686)、道明上人は天武天皇の病気平癒のため『銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)』を鋳造し、本尊としてお祀りされた。

 

 五重塔は、昭和29年に建てられ昭和の名塔とよばれている。純和様式の整った形の塔で、塔身の丹色と相輪の金色、軽快な檜皮葺屋根の褐色は、背景とよく調和し、光彩を放っている。

 

 蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊は本堂と同じ、江戸初期の建立。仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は1882年(明治15年)の火災焼失後の再建で、下登廊、繋屋、中登廊は1889年(明治22年)の建立である。これら明治再建の建物も、境内の歴史的景観を構成するものとして重要文化財に指定されている。

 

 境内にはそのほか、陀羅尼堂、興教大師祖師堂などが祀られる奥の院白山権現社弘法大師御影堂宗宝蔵大黒堂開山堂などがある。