「神剣」を祀る物部氏の石上神宮

金澤成保 

 

 

 奈良盆地の東に連なる山裾を「山辺の道」が巡っている。一部は弥生時代にさかのぼるともいわれ、日本でもっとも古い古道といわれている。2mほどの幅の小径であるが、桜井市の三輪山から奈良市の春日山に至り、その沿道や近隣には、ここで紹介する石上神宮と、さらに大神神社をはじめとする古社や古墳が祀られている。近鉄天理駅からバスで天理大学まで行き、その後を桜並木を歩きながら石上神宮に至った。今回は、大和神社もお参りしたが、『記紀』に登場する「上古」の歴史や信仰に触れてみたいと思ったからだ。

 

「山辺の道」が教える奈良盆地の古代景観

 今でいえば、曲がりくねった山道にすぎない「山辺の道」が、なぜ大和王権の主要道、「官道」でありえたのであろうか。大々的な水田開発水路事業がおこなわれる古墳時代までの奈良盆地は、四周の山々から流れ込む河川の水を受け、盆地内には沼地や湿地が広がり、道はこれを避けて山林、集落、田畑の間を縫うように山裾に沿ってつくられた。その代表例が「山辺の道」であった。

 

 沼地や湿地に水田開発をおこない、水路を切って排水・灌漑をおこない、土地の一部を乾燥化して陸地化幹線道路の整備を進めた。纏向遺跡で発掘された幅5mの「大溝」は、水運路の幹線と見られ、7世紀ごろには完成したと思われる南北道路「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」が直線道路の代表例で、発掘調査では「上ツ道」は幅が43mの大道であった。水田の開墾、水路整備に並行して、この時代多くの古墳が造成されていったが、水田水路の造成時に出た「残土」が、古墳の周囲の濠から掘り出される「残土」とともに古墳造成の「材料」になったのではないか。

 

古代の軍事氏族・物部氏が祭祀する石上神宮

 石上神宮は、『日本書紀』に日本最古とされる神社で、物部氏が祭祀する。物部氏といえば「廃仏」を唱えて「崇仏派」の蘇我氏と争ったことでよく知られるが、神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命(にぎはやひのみこと)が祖先と伝わる「天神」系の氏族で、大王家を支えた。物部氏は、実は大王家の一族であったのではないか。

 物部氏はもともと、鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに大伴氏と並ぶ有力な軍事氏族へと成長していったという。石上神宮は「布留社」「布都御魂神社」とも呼ばれ、古くこの地にいた布留氏の氏神であった。朝鮮語でプルは「火」で(コギ(肉)を火で焼けば「プルコギ」)、つまり布留氏は火を扱う鍛冶氏族で、弥生期に香春の地に渡来した新羅系の銅精製技術集団に連なる一族との説もある。物部氏は、この渡来系鍛治氏族を掌握し武器の生産に当たっていたのではないか。物部氏は継体天皇22年(528)に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられ、これを鎮圧している。天武天皇は、即位した翌年(674)に伊勢神宮石上神宮を「国家守護の二神宮」、「祭祀の伊勢と軍事の石上」としたといわれる。石上神宮は、大和政権の武器庫としての役割を果たしてきた。垂仁天皇39年には剣一千口と神宝が納められ、『日本後紀』桓武天皇・延暦23年(804)の条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国葛野郡に移動したとき、延べ15万7000余人の人員を要し、この間さまざまな変異が起こったと記されている。

 日本では、古来「物に魂が宿る」と考えられてきた。茶碗を、個人ごとに占用するのもその表れといえる(中国や朝鮮にもない)。物部氏の「もの」とは、「魂や霊が宿る物」のことで、とくに武器となるにそのことを見なしたのではないか。は物体としての金属の「」にとどまらず、魂や霊力が宿ってこそ切れるようになると考えたのではなかろうか。今日でも、日本刀に冷厳な美しさのみならず霊的な力を感ずるのは、この感覚だろう。武士を「もののふ」とよび、「ものの怪」とよぶ「もの」も、単なる物体ではなく「魂を宿した物」を表しているののではないか。「ものにする」の表現も、対象に想いや願い、念を及ぼすことによって成し遂げられることを表している。

 

「神剣」の霊威を祀る石上神宮

 石上神社では、『記紀』に登場する敵や怪物との戦いに用いられた「」に宿る「霊威」が祭神として祀られている。これらの「」は、王権の正当性とその武力の偉大さを象徴するもので、ただの武器としてではなく「霊威」が宿る「神剣」として尊崇された。大王とその一族のみが所有できた、強靱で鋭利なおそらくは鍛造の長尺な鉄剣であったのではなかろうか。戦場では、剣が折れるか切れるかが、生死勝敗を分けることになる(関連して「ヤマトタケルを祀る草薙神社」をリブログしました)。

 

 

 石上神社主祭神は、国土平定に偉功をたてられた神剣・「韴霊」(ふつのみたま)に宿られる「霊威」の布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)である(以下、石上神宮HP等を参照)。「韴霊」とは、『記紀』に見える国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)が持っていた。その後、神武天皇が初代天皇として橿原宮にて御即位されるのに際し、無事「神武東征」を終え大和にご到着されるのを助けた剣でもある。

 素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国で八岐大蛇を退治したときに用いた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の「霊威布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)も、主祭神として祀られている。石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えられている。そのほか〝亡くなられた人をも蘇らす〟とされる天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿られる「霊威」も主祭神として祀られている。

 また石上神社には、百済王から贈られたとされる国宝の鉄剣・七支刀が保管されている(製作年は、西暦369年と考えられている)。刀身に左右3本づつの枝刃が交互に付けられた剣で、実用よりも権力や祭祀的な象徴に用いられたと考えられている。7つの刃は、宇宙の中心が北極星であり、北斗七星天帝の居所の北方を示し、天帝と皇帝・天皇を重ねる「北辰思想」に関連しているとの説がある。

 

(写真は、「刀剣ワールド」より)

石上神社の由来と境内

 石上神宮は、奈良盆地の中央東寄り、龍王山の西の麓、布留山の北西麓の高台に鎮座している。北方には布留川が流れ、周辺は古墳が密集する地帯となっている。神武天皇は即位された後、神剣「韴霊」(ふつのみたま)の功績を称えられ、物部氏の遠祖・宇摩志麻治命(うましまじのみこと)に命じて宮中にてお祀りさせた。崇神天皇の7年、勅命によって、物部氏の祖・伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現在の地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)に、その剣を遷してお祀りしたのが当神宮の創めである。

 


 中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争した。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、1000石と称した神領も没収され衰微した。しかし、明治になると神祇の国家管理がおこなわれ、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されている。

 

 境内には、ニワトリが放し飼いにされており、心を和ませる。ニワトリは『記紀』にも登場し、暁に時を告げる鳥として、神聖視され、神様のお使いともされている。

 

 本殿・拝殿の前に出る楼門は、鎌倉時代末期、後醍醐天皇の文保2年(1318)に建立されたことが知られ、重文に指定されている。往古は鐘楼門として上層に鐘を吊るしていたが、明治初年の「神仏分離令」により、取り外された。

 拝殿は、当神宮への崇敬が厚かった白河天皇が、当神宮の鎮魂祭のために永保元年(1081)宮中の神嘉殿を寄進されたものと伝えられている。鎌倉時代初期の建立と考えられ、拝殿としては現存する最古のものであり、国宝に指定されている。 

 

 当神宮の御神体である神剣「韴霊」(ふつのみたま)が、拝殿裏の「禁足地」の土中深くに祀られているという伝承があったため、明治7年に当時の大宮司・菅政友が官許を得て調査したところ、多くの玉類・剣・矛などが出土するとともに神剣「韴霊」が発掘されたため、大正2年にかけて神剣「韴霊」を奉安するために現在の本殿を建立した。この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の「禁足地」を「布留高庭」「御本地」などと称し神宝が埋斎されていると伝えられていた。本殿建造のためおこなった1878年(明治11年)の「禁足地」再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した。「禁足地」は今もなお、「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。

 

(禁足地)

(本殿の千木と鰹木5本)

 境内には、摂社・出雲建雄神社が鎮座し、切妻造・檜皮葺の社殿を構えている。延喜式内社で、草薙剣荒魂である 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしている。江戸時代には、 出雲建雄神は当神宮の御祭神・布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)の御子神と考えられ、そのため 「若宮」とよばれていた。
 

 その拝殿は、は内山永久寺の鎮守社・住吉神社の拝殿を1914年(大正3年)に移築したもので、正安2年(1300)の建立。桁行5間の建物の中央1間分を土間の通路とした「割拝殿」とよばれる形式の拝殿で、国宝に指定されている。

 摂社・天神社には、造化神の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)の二座を、摂社・七座社には、 生命を守護するる「宮中八神」に、 禍や穢を改め直して下さる「大直日神」(おおなひのかみをあわせてお祀りした社である。


 境内には、末社の猿田彦神社、県道を挟んで神田神社がある。神田神社は、神武天皇が「東征」で、熊野で遭難にあったとき、高天原から下された当神宮の御神体である神剣「韴霊」(ふつのみたま)を天皇に奉った高倉下命(たかくらじのみこと)をお祀りしている。ちなみに、境内に安置してある「烏帽子岩」は布留川でとれた珍石であり、昔話が伝わっている。