念仏発祥、西山浄土宗本山の光明寺

金澤成保 

 

 ただ一心に「南無阿弥陀仏」を唱えることが、極楽浄土への道であると説く「専修念仏」、いわば「念仏三昧」を広め実践する西山浄土宗の総本山が、長岡京市西山の麓にある光明寺である。法然の高弟、証空・西山上人らによって「専修念仏」の教えの中核となった寺院で、紅葉の名所としても知られる。阪急・西向日駅で借りたレンタサイクルで、向日神社や乙訓寺とともに巡った。

 

法然・「専修念仏宗」の法難

 浄土宗他宗派では「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるだけではなく、善行を行うことでも極楽浄土に行けるという「二類各生説」を説いているが、西山浄土宗では、念仏を唱えることこそが極楽浄土へ往生できる道であるという「一類往生説」を主張して「専修念仏」を護りぬき、「専修念仏宗」とよばれた。

 

 こうした仏法の真髄を念仏の中に求め、貴賤を問わず多くの信者を獲得した新興の「専修念仏」の教えに対し、旧来の仏教教団から批判や弾圧の動きが出て、朝廷も対処せざるをえなくなった。元久元年(1204)、延暦寺の衆徒は、「専修念仏」の停止を天台座主に訴える決議をおこない、翌元久2年には、奈良・興福寺の訴えにより、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が不義密通の疑いで死罪とされ、法然および親鸞ら門弟7人が流罪とされた(「承元の法難」、「 建永の法難」ともいわれる)。

 

 嘉禄3年(1227)、法然が死去してから15年がたっていたが、「専修念仏」の教えは法然が生きていた時代以上に世に広まり、既存宗派の反発はさらに大きくなった。ついには天台座主が、証空ら浄土宗の僧たちを流罪に処し、さらに東山にある法然の墓を破壊してその遺骸を鴨川に流すように朝廷に訴えでた。証空は、すぐに弁明書を朝廷に提出したため助かったが、3名は流罪となっている(「嘉禄の法難」)。

 

 そして比叡山僧兵が、朝廷の許可なく法然廟所を襲って破壊し、さらに法然の遺骸を鴨川に流すつもりでいると伝わったため、弟子たちにより法然の遺骸は嵯峨の二尊院、そして太秦の広隆寺来迎院に移された。この間、六波羅探題の1000名の武士団が遺骸移送の護衛に当たったといわれる。それでも3名の門徒が流罪となり、『選択本願念仏集』の版木が焼き捨てられ、依然として天台宗は浄土宗へ圧力をかけ続けていた。安貞2年(1228)、さらに法然の遺骸を西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院(現、光明寺)に運び込み、証空らが見守る中で火葬して荼毘に付した。この後、遺骨は念仏三昧院知恩院など各地に分骨された。

(法然上人荼毘の図。写真は、光明寺HPより)

 

光明寺の由来と境内

 一宗派の総本山であり、境内は広く落ち着いており、荘厳な堂宇が魅力的な寺院である。参拝に訪れた日は、境内の一部が無料で参観できたが、各堂内・安置された仏様は残念ながら公開されていなかった。

 

 光明寺は、建久9年(1198)法然上人の弟子となった熊谷蓮生(れんせい)法師(元武者の熊谷次郎直実)によって、ここ粟生の里・広谷の地に御堂を造立したのが始まりで、師である法然上人を開山一世と仰ぎ、「念仏三昧院」の寺号も贈られた(以下寺伝を参照)。安貞元年(1227)、比叡山の衆徒法然上人の墳墓を暴く企てを、上人の遺弟たちが遺骸の石棺を太秦に移すことで防いだ(「嘉禄の法難」)。翌・安貞2年(1228)上人の遺骸を「念仏三昧院」に運び、荼毘に付して寺の裏山に遺骨を納め、御本廟を建てた。四条天皇より勅額を「光明寺」と賜り、以来光明寺は宗祖・法然上人の御遺廟の聖地として信仰を集めている。

 法然上人は24歳の時、比叡山から南都遊学の旅の途中、粟生の里の長者・高橋茂右ヱ門宅に一泊され、その際「誰もが救われる法門」が見つかりましたなら、是非とも我らにその教えをお説き下さいと、茂右ヱ門夫婦に懇請され、20年を経て、「専修念仏」の確信をえた上人(43歳)は比叡山を下り、 約束通り粟生の里をお念仏の教えを広く説き始める地に選ばれた。このような因縁から光明寺は「念仏発祥の地」、「浄土門根元地」の御綸旨を正親町天皇より賜っている。

 

 

 応仁の乱の際に、兵火にあい、元亀年間(1570 - 1573年)と天正年間(1573 - 1592年)の初めにも兵火にあっている。こうして衰微していた光明寺であるが、慶安4年(1651)に中興・倍山俊意が入山すると、伽藍の再建が進められ、『光明寺絵縁起』が作製されるなどし、「檀林」(学問所)の復興までおこなわれるようになっていった。しかし、享保19年(1734)に客殿から失火すると御本廟本廟拝殿、鐘楼、経蔵薬医門を除いて一山が全焼してしまったが、元文3年(1739)から復興がおこなわれた。

 

 明治になると、光明寺浄土宗西山派西本山となる。だが、1919年(大正8年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(戦後に西山浄土宗となる)、浄土宗西山禅林寺派浄土宗西山深草派の三つに分裂してしまい、現在に至っている。

 

 

 建造物は33棟あるが、今回その多くは公開していなかった。そのうちでもご紹介したい建造物は、次のもの。本堂である御影堂は、宝暦4年(1754)の再建。十八間四面、本瓦葺、総欅の入母屋造で、近世浄土宗本堂の典型的な建築様式。京都の浄土宗寺院本堂としては最大級の建物。本尊は、法然上人像・「張子の御影」である。この像は、法然自作といわれている。寺伝によると、「承元の法難」により、法然は讃岐国に流されることになり。その旅の途中で自ら張り子の肖像を作製し弟子の湛空に与えたといわれる。

 

(「張子の御影」。写真は光明寺HPより)

 

 御影堂とは渡り廊下で繋がっている阿弥陀堂は、 寛政11年(1799年)の再建である。本尊の阿弥陀如来立像は、源信恵心僧都)の作とされる。

 

 御本廟は、法然の廟所。法然の遺骨を7日間供養して分骨し、その一部を当地に葬り、廟堂が作られた。明暦2年(1656)に再建された。光明寺で最古の建物である。堂内の彫刻は左甚五郎が作製したものであるという。

 「円光大師御石棺」は、 法然上人の遺骸を納めていた石棺。興隆寺近くに隠された時、粟生の里に向け光明を発したという伝説を持つ。

 

 方丈の釈迦堂は、元文元年(1736)の再建。本尊の釈迦如来立像は左手に鉄鉢、右手に錫杖を持つ珍しい作り。「頬やけの釈迦如来」ともよばれている。庭園に、枯山水の「信楽庭(しんぎょうてい)」を備え、万延元年(1860)再建の 唐門・勅使門を構える。

 

 法然上人を火葬した「円光大師火葬跡」が祀られている。安貞2年(1228)「嘉禄の法難」の際、法然上人の17回忌に当たるこの年に、ここで遺骸を荼毘に付した。中央に、勢至菩薩がお祀りされている。

 

 法然上人を泊めて、この地が「浄土門根元地」となるキッカケをつくった高橋茂右衛門屋敷跡の碑があり、八幡神・熊野権現を祀る鎮守社が鎮座している。