早良親王・幽閉の地、乙訓寺

金澤成保 

 

 

 洛西の乙訓寺は、継体天皇による「弟国宮」(乙訓宮)の故地に建立された寺院で、その後延暦3年(784)、桓武天皇乙訓の地に長岡京を造営した時には、「京内七大寺」の筆頭として大増築された。翌年、長岡京造営の長官であった藤原種継が暗殺されるや、桓武天皇早良親王をその首謀者として当寺に幽閉した。早良親王は、その後淡路への流罪が決まり、その途上憤死を遂げている。乙訓寺は、早良親王が生前日々を過ごした最期の地であった。真言宗豊山派の寺院で、その総本山・長谷寺から移植された2000本の牡丹でも有名。本尊は、八幡神と弘法大師の合体大師像で秘仏である。

 

祟りを恐れられた早良親王

 早良親王は、兄の桓武天皇と同じく光仁天皇の皇子で母は高野新笠。天応元年(781)に、兄の山部親王が桓武天皇として即位するにともない,奈良仏教の指導的な僧侶から皇太子となる。光仁天皇の意向によるものといわれ、また桓武天皇の御子・安殿皇子(後の平城天皇)がまだ幼少で、早良親王が妻や子を持たなかったため、早良親王が天皇となっても、その没後に安殿皇子が皇位を継げることが、早良親王立太子の背景にあったと考えられている。

 延暦4年(785)に、藤原種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去した。犯人として捕らえられた大伴継人、佐伯高成らが、事件の直前に死亡した大伴家持のことばとして,種継排除を早良親王にはかり実行したと自白したため,親王は東宮にもどったところを捕らえられ,乙訓寺幽閉された。ちなみに事件に関与したとされる大伴継人,佐伯高成、大伴竹良ら十数名が捕縛されて斬首となった。

 

 長岡京の造営にとどまらず、内外の政務を桓武天皇に委ねられていた藤原種継と、早良親王は対立していたとも伝えられている。また環俗して「皇太弟」となる前は、早良親王は東大寺や大安寺の僧侶を務め「親王禅師」とよばれる奈良仏教の指導者であり、種継殺害の背後に奈良仏教の反対勢力が関わっていると見られていたことも、親王への疑いが強まった原因となったと思われる。

 

 親王は、無実を訴えるため絶食して10余日、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(守口市の高瀬神社付近)で憤死した(『日本紀略』)。その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇妃・藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王の生母の高野新笠の病死が続き、さらに疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執りおこなわれた。

 

 790年、早良親王の墳墓に墓守りをおかせ,792年その墓地に濠をめぐらせ穢れることのないようにし,経典の転読や幣帛を供えることとした。延暦19年(800)には、親王の霊に「崇道天皇」の尊号を贈り,805年には淡路国に寺を建立し,墓を改葬して大和国添上郡八島陵に移し,国忌・幣帛の例に加えた。桓武天皇は最後までその怨霊をおそれたといわれる。長岡京をわずか10年で廃都にしたのも、早良親王祟りを恐れたためといわれている。親王の霊は、奈良では、嶋田神社崇道天皇社に祀られ、平安京でも「御霊会」でも祀られ、御霊神社、下御霊神社(リブログしました)、崇道神社でその御霊が祭神となって祀られている。

乙訓寺の由来と境内

 寺伝では、推古天皇の勅命により聖徳太子が建立したといわれている。境内出土の瓦の年代から、長岡京造営以前、奈良時代の創建と推定されている。延暦3年(784)に、桓武天皇長岡京を造営した際には都の地鎮として大規模に増築された。延暦4年(785年)に、「造長岡宮使」の藤原種継が暗殺される事件が起き、桓武天皇の弟である早良親王にその首謀者の嫌疑がかけられ、早良親王は当寺に幽閉されている。その後淡路国流罪が決まり、その途上で憤死を遂げていることから、乙訓寺は、早良親王にとって最期の滞在地となった。

 

 弘仁2年(811)、空海嵯峨天皇から別当に任じられ、荒廃した伽藍の修理造営を行なった。早良親王怨霊を鎮めるためであったとも考えられている。翌・弘仁3年(812)、最澄が当寺にいる空海に、より深い密教の教えを聞くために訪れ、「両界曼荼羅」を前に密教の法論を交わした。両者が対面するのはこれが初めてのことといわれる。

 

 室町時代、当寺には12の僧坊があったという。しかし、内紛が発生すると将軍・足利義満はそれに介入して僧徒を追放し、当寺を南禅寺の傘下に入れた。永禄年間(1558 - 1569年)には織田信長による兵火によって焼失し衰微したが、元禄年間(1688 - 1704年)に江戸・護持院の住持・隆光が、将軍・徳川綱吉より当寺を貰い受けて住持になると復興に着手した。元禄6年(1693)には、綱吉より寺領百石を寄進され、徳川家祈祷寺となっている。隆光は当寺をもとの真言宗に改宗すると、元禄8年(1695)には、綱吉の母・桂昌院らの寄進によって堂宇を再建した。

 

(『拾遺都名所図会』(天明7年・1787)に描かれた乙訓寺)

 

 本堂は、江戸時代の建物で本尊の秘仏「合体大師像」が祀られている。長岡京市指定有形文化財である。鐘楼、山門、東門も江戸時代の建立で長岡京市指定有形文化財である。

 

 境内には、鎮守八幡社が祀られ、十三重石塔弘法大師像などが安置されている。