海住山寺の五重塔と十一面観音

金澤成保 

 

 南山城・当尾の里にある浄瑠璃寺と岩船寺の参拝を終え、コミュニティバスでJR加茂駅に戻り、かつて「恭仁京」の都があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)中腹の海住山寺(かいじゅうせんじ)を訪れた。このお寺は、国宝の五重塔十一面観音厄除寺で知られる(本堂内拝観500円)。

 

       仏塔古寺

           (海住山寺の山腹と木津川流域。写真は、海住山寺より)

 

 寺号の由来について「」とは、衆生を救済しようという観音様の誓願が海のように広大であることを意味し、のような観音の誓願に安するという意味があるとする。また、インド仏教では観音様の住処は南方海中の「補陀洛山」にあるとされ、当寺をするである「補陀洛山」になぞらえる意味もあるという。

 

 加茂駅で「木津川コミュニティバス」のワンボックスカーに乗り、岡崎で降りて40分ほどの坂道を歩いた。都合の良い時間にバスの便がないため、帰りは1時間以上かけて加茂駅まで歩いている。山寺への参拝には、徒歩を楽しむ余裕が欲しい。

 

(解脱上人・貞慶の像。写真は海住山寺のHPより)

 

海住山寺の国宝・五重塔

 鎌倉時代の五重塔の貴重な遺構であり国宝、裳階(もこし)付で高さは17.7mである。中興の祖、解脱上人・貞慶の一周忌・建保2年(1214)に完成した。お釈迦様の「仏舎利」を、貞慶が上皇から拝領し海住山寺に安置した。それらを祀るために建てられたのが、この五重塔である。五重塔で、国宝・重要文化財に指定されているものとしては、室生寺五重塔に次いで二番目に小さく、初層の屋根の下に裳階を設けているのが特徴。裳階をもつ五重塔として平安 - 鎌倉時代では、海住山寺五重塔のみである。この裳階は1962年(昭和38年)に復元され、旧態を復するため裳階には壁を造らず開放としている。

 

 初重内部には四天柱(仏壇周囲の4本の柱)はあるが、心柱は初層天井の上から立っている。初重内部の四天柱の間には4面とも両開扉を設けるが、珍しい構成である。各扉の内側には、天部・僧形などの仏画を彩色で描き、長押や方立にも彩色文様を施すが、いずれも剥落が著しいといわれている。日本の仏塔では、軒の出を支える組物は、肘木を3段に持ち出す三手先とするのが通例だが、本塔では各重とも二手先組物とするのも異例である。四天王立像は、五重塔の中に祀られていたが、現在は奈良国立博物館に寄託されている。

 

海住山寺の十一面観音

 本堂と奥の院には、それぞれ1体ずつ仏教の中では慈悲の神である十一面観音菩薩像が祀られている。 これらは、平安時代(794-1185年)の作品と考えられ、重文である。本堂に安置されている観音像は、像高189cmの一木造り。貞慶が入山する遥か前の平安中期以前の作で、観音の救済力を表わした不思議さを感じさせる造形となっている。観音の頭頂は木を削り出したままとし、背面も荒彫りを残すなど、観音が木から現われた様を示していると考えられる表現も見られるといわれる。

 

      海住山寺写真

                (写真は、「南山城の古寺」のサイトより)

 

 奥の院の観音像は、像高は45.5cmの一木造りで、作られた時代よりも前の時代の彫刻様式を継承したのではないかといわれている。普段は、奈良国立博物館に寄託されている。

 

海住山寺の由来と境内

 創建の歴史については定かではないが寺伝によると、奈良時代、天平7年(735)平城京の鬼門に当たる場所に伽藍を建立すれば、東大寺大仏が無事に完成すると夢でお告げを受けた聖武天皇の命により、海住山寺創建されたと伝わる。東大寺の開山であり、初代別当である僧侶・良弁によって、十一面観音菩薩を祀り、「藤尾山観音寺」と称した寺院を建立したのが、海住山寺の始まりといわれている。



 保延3年(1137)火災によって、大半の伽藍が焼失する被害を受け、寺院は衰退した。承元2年(1208)笠置寺解脱上人・貞慶(げだつしょうにん・じょうけい)が廃れた観音寺に移り住み、「補陀洛山海住山寺」と寺名を改め、寺院を再興した。




 貞慶の死後は、参議の高位から藤原長房が出家して慈心上人・覚真(じしんしょうにん・かくしん)となり、貞慶の遺志を受け継いで戒律を厳しく制定し、海住山寺の寺観の整備にも尽力した。最盛期には、58ヶ坊の塔頭を抱える大寺院として栄えたが、豊臣秀吉公による太閤検地によって寺領は縮小し、現在に至っている。海住山寺は、近世まで興福寺(法相宗本山)の末寺にあったが、明治以降は真言宗智山派に転じている。

 

 

 本堂は、山門の正面に東面して建てられている。明治17年(1884)に再建され、本尊の十一面観音菩薩を祀る。本堂庭園は、江戸時代の作庭といわれ、三上山(海住山)を借景とした砂利と苔の枯山水庭園白塀の向こうに紅葉などの樹林、その向こうに三上山が臨まれる。公開は晩秋だそうで、今回の訪問では観られなかった。

 

 本堂の北側の文殊堂は、正和元年(1312)の建立で、重文。三間二間で寄棟造りの小堂であり、現在屋根は銅板葺きだが、当初は檜皮葺であったと考えられている。この堂には文殊菩薩騎象像が安置されたことで文殊堂とよばれたが、貞慶十三回忌の追善願文に経蔵を建立することが記されており、その経堂がこれに当たるとされている。

 

 五重塔の後ろには、当寺の鎮守社として天満宮、春日社、稲荷社を祀る三社明神が鎮座している。いずれも江戸時代の建物。

 

 境内を北に向け道を下ると、解脱上人・貞慶と、同じく中興の祖、慈心上人・覚真の墓所がある。

 

 

 そのほか境内には、鎌倉時代の岩風呂、「修行大師像」、「なで仏びんずるさま」、「苦ぬき観音」・「苦ぬき地蔵」、「もち上げ大師」、「何くそやる気地蔵」などが祀られていて興味深い。