南山城・当尾の岩船寺と阿弥陀仏

金澤成保 

 

 南山城木津川市の山里・当尾(とうの)に、浄瑠璃寺とともに岩船寺(がんせんじ)を訪れた。岩船寺は、1000年を超える歴史のある「丈六」の阿弥陀仏(重文)と、アジサイなど四季折々の花が咲く「花の寺」として知られる。山城は、平安遷都までは「山背」と書かれ、奈良・平城京が文化の中心であった時代には、山々の背後にあたる地域であった(以下、岩船寺HPを参照)。そのため南都仏教の影響をつよく受けており、平城京の「外郭浄土」として興福寺や東大寺の僧や修行僧の隠棲の地となり、仏教信仰が深くそそがれた地域であったといわれる。

 

 「当尾」の地名は、この地に多くの寺院が建立され、三重塔・十三重石塔・五輪石塔などの舎利塔が尾根をなしていたことから「塔尾」とよばれたことによるといわれる。平安時代の石仏が多く祀られていることから、岩船寺から浄瑠璃寺までは、石仏をお参りしながら山道を歩いた。岩船寺までは、JR加茂駅から「木津川コミュニティバス」を利用している。バス停を降りると参道に、漬物や野菜無人販売がいくつかあり、それも手作りで一袋100円が基本で、どれも美味しそうで、お土産にいくつか買わせていただいた。

 

本尊・阿弥陀如来と諸仏

 本尊・阿弥陀如来像は、重量感に満ちた、3m近いいわゆる「丈六」の坐像。両手は定印を結び両足は「結跏趺坐」し、肉身には漆箔を施し、衣には朱の彩色が残っている。 胎内の銘文から、天慶9年(946)の作とみられ、平安時代初期から藤原時代初期の、10世紀中期を代表する貴重な尊像とされる(重文)。


(阿弥陀如来像。写真は、木津川市HPより)

 

 本尊脇には、普賢菩薩騎象像四天王立像が祀られている。普賢菩薩は、辰年・巳年生まれの守護仏。寺伝によると智泉大徳の作と伝わり、一木造りの彩色像で、法華経に説かれる六本の牙を持つ白象に乗る普賢菩薩騎象像。法華経を信ずる者を護持するといわれ、当時代を代表する優品とされている(重文)。

 本尊を祀る須弥壇の四隅には、寄木造彩色の持国天・増長天・広目天・多聞天四天王立像が安置され本尊をお護りしている。多聞天の台座に墨書された銘文から、正応6年(1293)の作であることが確認できる。

 

 本堂内陣の裏に、十二神将像が祀られている。十二神将とは、薬師如来と薬師経を信仰する者を守護するとされる12体の武神である。室町時代の作とされ、各像は小さいながらもそれぞれの神将の頭の上に干支の動物をつけ、豊かな表情・ポーズをを示している。十一面観音像は、あらゆる方向を常に見て、人々を悩みや苦しみから救い、願いをかなえる菩薩の像。鎌倉時代の作とされ、左手に花瓶を持ち、女性的な美しい像である。

 

   

                  (十二神将像。写真は、岩船寺HPより)

 

(十一面観音像。写真は、「南山城の古寺」のサイトより)

岩船寺の由来と境内

 江戸時代の「岩船寺縁起」によると、天平元年(729)に、聖武天皇が夢想によって行基に一宇の阿弥陀堂を建立させ、のちに弘法大師・空海とその甥である智泉大徳が「伝法灌頂」を修して新たに報恩院を建立したのが草創の始まりとされる。

 

 嵯峨天皇が、智泉大徳に勅命して皇子誕生の祈願をさせたところ、弘仁元年(810)に皇子が誕生(のちの仁明天皇)し、弘仁4年(813)には檀林皇后(橘嘉智子)本願となり堂塔伽藍が整備された。 そして、弘安二年(1279年)に報恩院を移して本堂とし、最盛期には寺塔39坊の広壮を誇ったが、承久3年(1221)の承久の乱によりその多くを焼失、再建した堂宇も応長のころ(1311年)にまたもや兵火によって失った。

 

 現存する伝世品からみると、本尊・阿弥陀如来坐像に「天慶9年(946)」制作の銘文が、四天王立像には「正応6年(1293)」の銘文、境外の石仏には「弘安・永仁・応長」の銘文があり、平安中期頃までには岩船寺が創建され、鎌倉中期には復興の活動がなされていたことがうかがわれる。「岩船寺」の寺号の存在を示すもっとも古いものとして、境外にある不動明王立像磨崖仏の銘文に、弘安10年(1287)の年号と発願者である岩船寺僧の文字がみえる。




 江戸時代の寛永年間(1624~43年)には、徳川家康・秀忠らの寄進により修復されたと記されている。鎌倉時代から江戸末期までの当尾地域は、岩船寺・浄瑠璃寺ともに南都・興福寺一乗院の直末寺であったが、明治に入ると廃仏毀釈により興福寺が混乱時期に入り、岩船寺は無本寺、無住となったが、明治14年(1881)に真言律宗・西大寺の末寺となった。

 

 本尊の阿弥陀如来坐像を安置する本堂は、昭和63年(1988)の再建。

 

 三重塔は、嘉吉2年(1442)の建立で、南側山手の境内「阿字池」の奥まった高台に、東を正面として建つ(重文)。初重の内部には来迎柱を立て、須弥壇と来迎壁を設ける。各層の屋根を支える四隅の垂木には天邪鬼である「隅鬼」(重文)が彫刻され、四方に向け魔除け・厄除けとなっている(「隅鬼」は、唐招提寺本堂や法隆寺五重塔にも備えられている)。

 

(「隅鬼」。写真は岩船寺HPより)

 

 境内社に、かつて岩船寺の鎮守社であった重文の白山神社、それに並んで春日神社の祠が祀られている。境内全体が、京都府暫定文化財の名勝・史跡となっており、境内の中心に、三重塔を臨む「阿字池」を中心とした池泉回遊式庭園がある。

 

 境内には、重文の石塔・石室が安置されている。正和3年(1314)妙空僧正の建立と伝える高さ5.5mの十三重石塔、寺伝では東大寺別当平智僧都の墓と伝えている鎌倉時代末期造の五輪石塔、奥壁には不動明王立像を薄肉彫りした応長2年(1312)作の石室不動明王などがある。