南山城・浄瑠璃寺の九体仏

金澤成保 

 

 南山城、奈良との県境にある木津川市「当尾(とうの)の里」に、浄瑠璃寺を訪ねた。浄土に往生したいと願う人々をあまねくお救いくださるという九体の阿弥陀仏にお会いするためである。平安時代をしのばせるゆったりとした浄土式庭園に臨んで三重塔と本堂が池に姿を映し、ことのほか美しい。阿弥陀仏を本尊とするが、もともとは薬師如来が祀られ、寺名は薬師如来の居所である東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来するという。九体仏を祀るため「九体寺」ともよばれている。参道には、堀辰雄が「浄瑠璃寺の春」に描いたアセビ(馬酔木)が、ふくよかな花びらを咲かせていた。浄瑠璃寺は、極楽を体現したお寺である。

 

 平安晩期建立の本堂内に祀られる九体の阿弥陀仏四天王像はすべて国宝で、堂内は彩色や壁画の装飾がなく簡素な空間ではあるが、鎮座する仏様たちが慈悲に満ちたお姿で「仏の世界」を創り出していた。一体一体にお参りし、その中に自分を守護してくださる阿弥陀様にお会いできたように感じた。参拝が終わっても仏様たちを前にして座り、「仏の世界」に浸らせていただいた。

 

(境内に住まう、可愛いいが「主」のように泰然自若とした猫)

 

 浄瑠璃寺へは、JR大和路線で加茂駅へ行き、そこから「木津川コミュニティバス・当尾線」を利用して岩船寺のバス停で降り、岩船寺を訪ねた後、山中を石仏を見ながら浄瑠璃寺まで1時間ほど歩いた。

 

九体阿弥陀仏

 11 - 12世紀の白河院・鳥羽院の院政期を中心とした平安晩期には、多くの九体阿弥陀堂が建立された。これは仏教の「九品往生」の考えに基づくもので、藤原道長が建立した無量寿院阿弥陀堂を最初の例として30数例を数えるが、そのうち平安時代の作で現存するものは浄瑠璃寺本堂のみである。九体阿弥陀堂の多くは、天皇家や有力貴族が建立したもので、当寺のように地方の豪族によって建立されたものは珍しい。

 

(鐘楼)

 

 「九品往生」とは、阿弥陀如来の住む極楽浄土に生れたいと願う者の往生の仕方には、修行の方法、期間、修行によって得る功徳や利益などの違いによって9段階 (九品) あるとする説。浄土三部経のうちの『観無量寿経』に説かれ,「上品」「中品」「下品」の段階に分けられ、さらにそれぞれが「上生」「中生」「下生」に区分され、合わせて9段階とする。

 

(東側から池をはさんで本堂を臨む)

 

 9体とも檜材の寄木造・漆箔仕上げで、像高は中央の中尊像のみが他より大きく224cm、その左右の脇仏8体は、139cmから145cmである。中尊像は右手を挙げ、左手を下げる「来迎印」、脇仏は8体とも腹前で両手を組む「弥陀の定印」で、脇仏8体の印相はすべて共通である。

 

(写真は、九体阿弥陀如来坐像。東京国立博物館のサイトより)

 

 9体の造立年代については、直接証明する史料がなく、研究者によって9体を同時期の作と見る説と、中尊像のみが古く、脇仏8体は時代が下ると見る説がある。いずれにしろ平安晩期の11世紀中期か12世紀初頭の本堂建立時と見られる。

 

(中尊像。写真は「南山城の古寺」のサイトより)

 

 ほかに寄木造・漆箔で彩色・截金が施された四天王像のうち持国天と増長天が安置されている(他の2体は、京都・東京の国立博物館に寄託)。像高は、167cmと169.7cm。いずれも国宝。

 

(写真は、木津川市のサイトより)

 

 さらに中尊像の横の厨子には、「身色白にして十五歳の女」の姿を表したと伝わる秘仏の吉祥天立像が安置され、特定の期間に厨子の扉が開かれる。像高90cmの檜材割矧ぎ造で、美しい彩色と截金が施されている。

(写真は、木津川市のサイトより)

 

浄瑠璃寺の由来と境内

 境内に入ると、まずは左手・三重塔の方向に進み、塔中の薬師如来に手を合わせ、次に後ろを振り返り、池越しに本堂阿弥陀如来に向かって手を合わせるのが、参拝の作法といわれる。浄瑠璃寺が、薬師如来を祀るお寺に始まり、その後、9体の阿弥陀仏を祀る寺院へと変貌した歴史があり、三重塔に安置されている薬師如来が、もともとのご本尊であったと考えられていることが背景となっているのではないだろうか。

 

(図は、KYOTO SIDEのサイトより)

 

 寺に伝わる『浄瑠璃寺流記事』によれば、永承2年(1047)義明上人によって本堂が建立された。檀那は、当地方の豪族の佐伯氏とみられている。嘉承2年(1107)、本仏の薬師如来を「西堂」に移したとの記録があり、この時に旧本堂を取り壊して、そこに現本堂の新本堂を建立したと考えられる。この記録から、当寺の当初の本尊(本仏)が薬師如来であったことがわかり、寺号も薬師如来の浄土である東方浄瑠璃世界に由来することがわかる。

 

(写真は薬師如来。「西国四十九薬師霊場会」のサイトより)

 

 その後、浄瑠璃寺の伽藍は整備され、久安2年(1146)食堂と釜屋を建設、同6年に摂政藤原忠通の子・恵信(心)が寺を整備する際に池を築造、平治元年(1159)十万堂を棟上げしている。治承2年(1178)には、三重塔の移築とともに鐘楼が造立され、建仁3年(1203)には、楼門・経蔵・閼伽井が上棟されている。中世から近世にかけて、浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。

 

 本堂は、九体阿弥陀堂とよばれ、嘉承2年(1107)の再建で国宝。寄棟造・本瓦葺きで桁行11間・梁間4間の横長の建物で、隅の柱上に舟肘木を用いるほか、外周の柱上には組物を用いない、簡素な建物である。左右両端の間は上半を連子窓、下半を土壁とし、他の9間は板扉とする。阿弥陀如来が一体ごとに開口部を与えられている。扉を開ければ、9体すべての阿弥陀仏が前面の池に映し出され、西方浄土の世界を視覚化できる設計となっている。

 平面は、桁行9間・梁間2間の身舎(もや)の周囲に1間幅の庇をめぐらした「九間四面」の形式で、身舎の奥寄りに横長の須弥壇を設け、9体の阿弥陀如来坐像を横一列に安置する。天井は、垂木などの構造材を見せる「化粧屋根裏」とする。安置する9体の阿弥陀如来像のうち、中尊は他の8体より像高が大きく、光背には1000体といわれる小さな阿弥陀如来が彫られ、無限の慈悲を表している。中尊を安置する堂中央部分の柱間は他の柱間より2倍近く広くなっている。屋根は現状では本瓦葺きであるが、もとは檜皮葺であった。本瓦葺きとなったのは寛文6年(1666)であり、堂正面の向拝も江戸時代後期に付加されたものである。

 

(横長の本堂裏側の濡れ縁)

 三重塔は、比較的小さいが屋根が大きく張り出して優美であり、国宝である。『浄瑠璃寺流記事』によると治承2年(1178)、京の一条大宮から移建したとするが、もともとどの寺院にあったのかは不明である。構造上の特色は、初層内部に上層につながる柱がないことで、心柱は初層の天井から立てられている。初層内部に仏壇を置きその上に重文・秘仏の薬師如来像が安置されている。初層内部の壁面には十六羅漢像などの壁画が描かれているが劣化が進んでいる。

 

 

 庭園は、奈良・興福寺の僧・恵信により、記録によると久安6年(1150に造成されている。洲浜や中島のある池泉回遊式庭園である「浄土式庭園」の代表的な庭園。浄土をこの世に具現したとされる庭で、国の特別名勝・史跡に指定されている。境内の中心に配された、物事の根源を表す「阿字池の中央には、小島があり弁才天祠が祀られ、東の岸辺から洲浜がそれに向けて伸びている。

 

 

 この池をはさんで、西に本堂、東に三重塔が向きあい、東からは西側の本堂、すなわち阿弥陀如来がいらっしゃる「西方極楽浄土」を、逆に西の本堂からは薬師如来が住む「東方浄瑠璃世界」を拝む祈りの空間構造が表されされている。

 

(早春に浄瑠璃寺の参道に花咲くアセビ(馬酔木)の花)

 

 帰りに、参道の喫茶・食事処で、甘い生姜汁とわらび餅をいただいた。