清水次郎長の墓所、梅蔭寺

金澤成保 

 

 

 静岡・清水にある梅蔭寺は、幕末から明治にかけての「大親分清水次郎長の菩提寺で、臨済宗妙心寺派の禅寺。次郎長の銅像や次郎長一家の墓がある。この辺りは東海道五十三次の宿場町江尻宿で、清水港で栄え「次郎長生家」や美濃輪稲荷神社がある(リブログしましたので、「次郎長ゆかりの美濃輪稲荷神社」もご覧ください)。

(清水次郎長彫像)

(遠景の富士山)

「社会事業家」としての清水次郎長

 任侠の道を歩み、駿河で一家を成していた「大親分」次郎長は、明治維新に駿府町差配役に任命された伏谷如水に説得され、固辞を重ねたが結局街道警護役を引き受け、駿府東海道の治安と振興に貢献する人生を歩む決断をした。幕府解体により、大量難民となって駿河に入って来た旧幕臣とその家族を炊き出しなどで救護し、住まいを提供して混乱を治めた。

 旧幕府軍海軍の榎本武揚は、艦隊を率いて品川沖から北海道へ新天地を求めたが、大嵐に見舞われて咸臨丸の帆柱が折れ、清水港に入港した。官軍は、白旗を掲げる咸臨丸を大砲で攻撃し船内に斬りかかり、旧幕臣を皆殺しにして海に放り込んだ。「賊軍」だとして、官軍は遺体を捨て置くようにと厳命したが、次郎長は、「仏になれば賊軍も官軍もない」として遺体を回収して供養した。次郎長は駿河藩役所より出頭命令を受けたが、「人の道として当たり前のことをしただけだ」と主張して、結局「お咎め無し」となった。静岡藩大参事に就いていた山岡鉄舟は、咸臨丸事件での次郎長の言動を聞き、深く感謝して親交を持つようになり、次郎長がつくった旧幕臣のお墓に「壮士の墓」という銘を与えている。

 

 次郎長は、荒地であった富士裾野(大渕)の困難な開墾を成し遂げ、さらに清水港の発展には茶の販路の拡大が必要だと考え、明治13年(1880)には「静隆社」の設立に携わり、蒸気船を3隻をもって輸出茶の商人・静岡の茶商・清水港の廻船問屋を結びつけて清水港と横浜港の定期航路を誕生させた。英語の必要性を感じた次郎長は、旧幕臣の新井 幹の開いた私塾「明徳館」の一室を使って英語塾を開設している。

 

(次郎長の墓)

 そのほか、船宿「末廣」の開業、東京帝大医学部を卒業した植木重敏らを招いて「済衆医院」の開設もおこなっている。明治26年(1893)、三代目お蝶に看取られながら、74歳で生涯を終えた。葬儀は、梅蔭寺でおこなわれ、3000人を超える参列者が集ったといわれる。次郎長は、初代、二代目、三代目お蝶・大政・小政・森の石松などとともに今も梅蔭寺に眠っている。

 

(次郎長一家の墓)

梅蔭寺の由来と境内

 梅蔭寺の歴史は、室町時代の中期、明応元年(1492)の創建にさかのぼる。当初の名は、梅蔭庵と称した。戦国時代には、甲斐国・武田家の御朱印地であったといわれる(「おにわさん」のサイトを参照)。

 

(次郎長の肖像)

 往時の伽藍は、慶長年間(桃山時代〜江戸時代初期)の火災や、安政の大地震により失われていて、現在の本堂は平成年代(2010年代)に建築されたもの。本堂の脇にある枯山水庭園も、その際に作庭されたもの。

(本堂)

 主庭は、その奥にある池泉庭園で現代の庭園。城郭のような石垣とサツキの刈込みによるデザインで、石垣は駿府城を、池泉は駿河湾を表現したもの。その中央に鎮座する次郎長が故郷・清水に根を下ろした姿が表現されている。

(駿河城の石垣を表した石碑)

 その奥には弁天堂、さらにその先に清水次郎長やその家来の大政・小政、女房のお蝶夫人の墓所が祀られている。近年リニューアルした「次郎長資料館」では、黒駒の勝蔵から贈られた水晶玉・お守りの毘沙門天道中差・時計・望遠鏡・火縄銃など幕末から明治維新を生きた清水次郎長ゆかりの遺品が展示されている。

 

(弁天堂)

(次郎長資料館)