山岡鉄舟再興の鉄舟寺

金澤成保 

(山岡鉄舟坐像)

 静岡・清水の太平洋を見下ろす山麓に、臨済宗妙心寺派の鉄舟寺がある。奈良時代に行基が、「駿河七観音」(安倍七観音)のひとつ千手観音像を納めたとされる。もとは、現在久能山東照宮のある久能山の山頂にあって「久能寺」といったが、武田信玄によって現在の地へ移され、江戸時代末期までに荒廃したものを、幕末の英傑・山岡鉄舟が再興し、「鉄舟寺」となった。本尊は千手観音菩薩

 

(山門(仁王門)、写真はWikipediaより)

山岡鉄舟の人となり

 鉄舟は幕末の幕臣、剣・禅・書の達人に達した英傑で、勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長188cm、体重100kgを超える偉丈夫でもあった。「江戸城無血開城」の真の立役者で、勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜から直々に使者として命じられ官軍の駐留する駿府に、死を賭して辿り着き、単身で西郷と面会して交渉、大枠を妥結した(「幕末の英傑、山岡鉄舟」をリブログしたので、そちらもご覧ください)。

(中門、鐘楼を臨む)

 明治維新後、幼君・徳川家達に従い、駿府に下った山岡鉄舟は、明治2年(1869)には勝海舟とともに静岡藩権大参事に就任し、清水次郎長と意気投合、さらに職を失った旧幕臣の殖産興業による牧之原台地開墾・茶の栽培などに尽力した。

 

(宝仏殿)

 鉄舟は鉄舟寺再興募金のために、沢山の書を揮毫して清水次郎長に与えた。次郎長も大いに奔走して寄付を募り、石材や人夫・大工の手配に尽力した。この時、次郎長のために書いた募金趣意書に、「寺を建てても何もならぬ・・なんにもならぬ何かある」ので喜捨願いたいと述べている。

 

(本堂)

 勲章を持参した井上馨に鉄舟は、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。・・維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんか”ふんどしかつぎ”じゃねえか」と啖呵を切ったといわれる。

 

(熊野三山を祀るお堂)

 鉄舟は、「己の善行を誇り 人に知らしむべからず すべて我心に努むるべし」の言葉を残し、鉄舟寺の本堂前には、「晴れてよし 曇りてもよし 不二の山 もとの姿は かはらざりけり」の句碑が富士山に向かって立てられている。

(本堂前の鉄舟の歌碑)

鉄舟寺の由来
 

 鉄舟寺は、推古天皇の時代に秦氏の出身である久能忠仁が現在の久能山東照宮付近に建立した堂が始まりとされ、その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという(『久能寺縁起』)。平安時代に入って天台宗に改められ、駿河を二分する勢いで栄えた。当時坊中360、衆徒1500人もあり、豪勢をほこっていたといわれる。

(墓地上の高台にある観音堂)

 永禄13年(1570)、武田信玄が今川氏を攻略し駿河に入ると久能山に久能城を造るため、その地にあった当寺は、天正3年(1575)現在地に移された。武田家が滅んで江戸時代になっても幕府による保護は厚く、御朱印地200石余りが与えられ、多くの支坊を有していた。しかし江戸時代後期ごろから衰退し、明治に入ると住職もいなくなり寺は荒廃してしまった。


(墓地入口の観音像)


 その後山岡鉄舟が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も山岡鉄舟の遺徳を讃え鉄舟寺と改められた。鉄舟48歳の時である。ところが、鉄舟は明治21年(1888)53歳でこの世を去り、鉄舟寺の完成を見ることが出来なかった。清水の魚商、柴野栄七翁が鉄舟の意志をつぎ、明治43年(1910)鉄舟寺の完成を果たしている。

(本堂前の庭)