「羽衣伝説」の御穂神社

金澤成保 

 

 静岡・清水にあるヤマトタケルの伝説で知られる草薙神社の後、三保の松原にある御穂(みほ)神社にお参りした。御穂神社は天女の「羽衣伝説」に関わる宮で、「羽衣伝説」とは、地上に舞い降りた天女が浜辺の松に掛け置いた羽衣を漁夫の白龍(伯梁)に拾われ、それを返してもらうために「天人の舞」(月世界の舞)を舞ったという伝説。御穂神社には、羽衣の切れ端とされるものが保存されている。神社境内と参道「神の道」は、世界文化遺産「三保松原」の範囲に含まれている。

 

御穂神社の由来と境内

 創建は不詳だが、『駿河雑志』では、日本武尊(ヤマトタケル)が勅により官幣を奉じて社領を寄進したとも、出雲国の御穂埼から遷座した神であるとも伝えるが明らかではない。祭神は、大己貴命(おおあなむちのみこと、大国主ともいわれ、「三穂津彦命」ともされる)とその娘あるいは后の三穂津姫命(みほつひめのみこと)である。

 9世紀後半には「御廬神」(みほがみ)として記事に見え、延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では「御穂神社」と記載され、式内社に列している。駿河国三宮の地位にあったとする説もあるが、根拠は明らかになっていない。

 文保3年(1319)の「鰐口」(仏堂・社殿の正面軒先きに吊り下げられる梵音具)には、「三保大明神」と見え、また弘治3年(1557)には、山科言継が今川義元の勧めで「三浦之大明神」と記される当社に参詣している。

 三保松原には「羽衣の松」があり、そこから御穂神社の社頭までは松並木の参道が続くが、この並木道は羽衣の松を依代として降臨した神が御穂神社に至るための道とされ「神の道」と称されている。

 

 現在でも「筒粥神事」では海岸において神迎えの儀式がおこなわれ、その際に神の依りついた「ひもろぎ」は松並木を通って境内にもたらされる。これらから、御穂神社の祭祀は海の彼方の「常世国」から神を迎える常世信仰にあると考えられている。

 

 近世には、徳川家康から朱印地として三保など3カ村の106石が与えられ社殿も整備されたが、寛文8年(1668)に火災で焼亡したという。明治維新後、郷社に列し、明治31年(1898年)に県社に昇格した。

 

 社殿は、寛文の火災の後、仮宮として建てられたもので本殿は入母屋造(静岡市指定文化財)。

 

 境内社には、子安神社、舞殿の東に呉服之神社、稲荷神社、胡夫大夫神社、磯前神社、産霊神社 五社

 

 本殿の西に、八幡神社、八雲神社、神明社三社が祀られている。