ヤマトタケルを祀る草薙神社

金澤成保 

 

 静岡の草薙に、ヤマトタケルの「火難伝説」の地に草薙神社があり、旅行の機会にお参りすることにした。「火難伝説」は、『記紀』に書かれ、ヤマトタケル(日本武尊 )が東征の際、賊によって野に火をかけられ焼き殺されそうになったが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を薙ぎ払い、「向い火」を放って難を逃れたとの逸話である。

 

 草薙駅付近の平地は、ヤマトタケルの「火難伝説」の地と見なされ、「天皇原(てんのうばら)」と称される。かつて草薙神社はこの地にあったといわれ、現在も「古宮」として伝わっている。静岡市には、谷津山古墳や三池平古墳が残っており、これらの古墳を築いた勢力の服従が、伝説成立の背景にあると推測されている。また、「野焼き」や延焼防止に「向い火」をつけた様から、「焼畑」をもっぱらとした勢力が関わったのではないかとも考えられている。

鉄剣」の草薙剣

 ヤマトタケルが、草を薙ぎ払って火から逃れた天叢雲剣は、この伝承から「草薙剣」とも称されてきた。しなやかな草を切り払ったとは、この剣がとりわけ鋭利であったことの修辞と想われる。『古事記』によれば、天叢雲剣はスサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した折その尾から取り出したとされ、その時スサノオが用いた「十拳剣」(長さ十握りの長剣)が刃こぼれするほど「都牟刈」(つむがり)、すなわち非常に鋭利であった述べられている。

 

 「草薙剣」は、青銅剣であったのか、あるいは鉄剣であったのか。弥生時代中期ごろから、鉄剣の短剣が用いられるようになったが、弥生時代後半になると鉄剣、鉄刀が武器の主流となったとみられる(「刀剣ワールド」のサイトを参照)。長剣は、王など支配者層を象徴する剣であったのではないか。埼玉県で発掘され「金象嵌文字」で有名な長剣の「稲荷山古墳出土鉄剣」は、古墳時代5世紀のものとされている。

 

 八岐大蛇を切ったとされる「十拳剣」は『古事記』にあるように、奈良・石上神社のご神体として永くその禁足地に秘されてきた鉄剣で、明治時代に発見され刃こぼれの痕が確認されている。「草薙剣」が「十握剣」よりも強い鉄剣であったことの傍証ともいえる。往時最強の武器と見なされたことが、「草薙剣」(天叢雲剣)を大王(天皇)の権威と武力を象徴する「三種の神器」の一つとされた理由であろう。

 

 鋭利で頑丈な鉄の武器は、戦闘で優位をもたらし、鋭端な鉄が斧・鎌鋤鍬に用いられれば開墾・開拓、土木治水工事が飛躍的に進展し、したがって農業生産量も大幅に拡大させた。鉄は、地域支配力を拡大し、その社会を豊かにし発展させる基本材であったことが、「草薙剣」(天叢雲剣)の神格化の背景にあったといえるだろう。

草薙神社の由来と境内

 景行天皇は景行天皇53年(123)、息子であるヤマトタケルの勲功の地を尋ねようと、まず伊勢に行幸され、ついで東国のこの地に到着して、一社を建立してヤマトタケルを奉祀し、御霊代として「草薙剣」を奉納したと伝わる。それが草薙神社の創始とされる。

 

 

 927年成立の『延喜式』神名帳に「草薙神社」と記載され、式内社に列している。ヤマトタケル伝承との関連から武家から信仰され、天慶年間(877-885)には「平将門の乱」の平定に祈願成就の参拝がなされたと伝える。

 中世には、永享4年(1432)に室町幕府将軍・足利義教の駿河下向に従った僧・尭孝が草薙社について記述している。天正8年(1580)には、森民部太夫により釣燈籠と鰐口(ともに静岡市指定文化財)が奉納された。

 天正10年(1582)には竹木の伐採が禁止され、天正18年(1590)には社領として草薙郷18石が民部大輔に安堵された。この社領は、慶長4年(1599)にも、横田村詮により安堵されている。江戸時代の社領は50石であったとされる。明治維新になると、明治3年(1873)に郷社に列し、明治12年(1879)に、県社に昇格している。

 神社入口に随神門があり、当社を守る右大臣・左大臣が鎮座している。本殿は、拝殿の奥にあり、日本武尊を祀っている。門および社殿は、東面して建てられている。

 

 

 手水舎は、花が飾られ「花手水舎」となり、色とりどりの風車とともに参拝者を迎えていた。舞殿では、稚児舞などが奉納されていた。

 

 

 境内摂社は、本殿南側に内宮社・加茂社・子安社・八播社・山神社・浅間社の六社、北側に住吉社・春日社・愛宕社・白髭社・厳島社・稲荷社・荒神社・天神社(天満宮)・天皇社 の九社が鎮座している。

 

 

 境内には、周囲25mで樹齢1000年を超える大樟(大楠)が、ご神木として祀られている(静岡市指定天然記念物)。幹心は枯れて外皮を残すのみであるが、枝葉が茂っており、その生命力を感じさせられる。