一休禅師の墓所、酬恩庵・一休寺

金澤成保 

 

 京田辺に南山城の古寺の一つ、酬恩庵、通称・一休寺がある。JR学研都市線の京田辺駅を、西に1kmほどにある臨済宗大徳寺派の寺院で、住職手ずから作られる「一休寺納豆」でも知られる。トンチ話で有名な一休宗純禅師が、晩年暮らして復興させた寺院で、その墓所も祀られている。本尊は、釈迦如来

 

 自由奔放で戒律を破ることを怖れなかった一休禅師ではあったが、その一方で生涯、悟りの境地を己の方法で求め続けた。一休寺が、静寂で美しく気高い禅苑であるのは、一休禅師が悟りを得て仏とともにある世界を表しているためではないだろうか。総門をくぐると、石畳の参道が続く。両脇には楓が植えられ足もとには隙間なく苔がしきつめられ、桜、ツツジ、サツキ、沙羅、萩など、四季を通じて美しい(拝観料500円)。

一休禅師の人となり

 一休宗純禅師は、室町中期の臨済宗大徳寺派の禅僧で、後小松天皇のご落胤とされる。当時の世俗化・形式化した禅に反抗して、奇行・風狂・破戒の中で純粋孤高、飄々として天衣無縫の生涯を送った。彼の禅の本質や言動は、世間の常識では計ることはできないものであった。「狂雲」とみずから号し、『狂雲集』を著してその境涯を詠じている。

 

 隠遁孤高の山中の禅者から,一転して「狂雲」のように激情にまかせて,京洛の巷に出て遊女や酒に耽溺する。凡人を越えて禅に帰し,禅を越えて凡人にもどる。晩年溺愛した盲目の美女,森女(森侍者)との秘め事を赤裸々に詠じている。
 

(この写真は、酬恩庵・一休寺のHPより)

 一休禅師は、詩、書画、茶道にも優れた文化人でもあった。は、鎌倉時代より日本に伝わるが、当庵の開山である南浦紹明が、禅堂の茶の作法を宋より日本にもたらした。坐禅の時、睡気をもよおすので、睡気ざましに茶を用いたのが初めといわれている。それを一休禅師村田珠光に教え、宋の趙州和尚の「喫茶去」の公案を与えた。それが、武野紹鴎千利休に伝わって、現在の茶道が完成されたとの説がある。

 

 

 「木刀を朱鞘に納めた大太刀を差して巷を歩きまわった」、「大徳寺の法要に、ボロ着を着て参列した」、「悟りを開いたことを認める印可状を皆の前で破り、火をつけて燃やした」などの逸話を残し、「女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む」、「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬるを待つばかりなり」、「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ」などの名言を残している。

 

酬恩庵・一休寺の由来と境内

 南浦紹明(大応国師)が、正応年間(1288 - 1293)に開いた妙勝寺が前身である。元弘年間(1331 - 1334)に、兵火にあって衰退していたのを、康正2年(1456)に一休宗純禅師が草庵を結んで中興し、師恩に酬いる意味で、酬恩庵と号した。

 

 一休禅師は、大徳寺の住持となってからも当庵から大徳寺へ通っている。その後、一休禅師は文明13年(1481)、88歳で亡くなるまで、森女(森侍者)とともにここで過ごしている。

 

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際、前田利常が当庵で休息したこともあり、慶安3年(1650)には、前田利常が伽藍を再興している。江戸時代になると、幕府から朱印状が与えられている。

 

 本堂(法堂、仏殿とも呼ばれる)は、永享年間(1429 - 1441)に室町幕府将軍の足利義教によって建てられた禅宗様の仏殿で重文。

 

 開山堂(大応堂)は、 1912年(大正元年)に改築されたが、内部は以前のまま。当庵開山の南浦紹明(大応国師)の木像が、一休禅師によって安置されている。

 

 方丈は、住職の接客や仏事をおこなうところで、慶安3年(1650)に前田利常により再建された。重文である。内部の襖絵は江戸時代初期の画家・狩野探幽の筆によるもので、今あるのは複製で本物は宝物殿にある。重文の木造一休和尚坐像が仏間・昭堂に安置されている。一休没年の文明13年(1481)に高弟墨済によって作られた。頭髪と髭を植え付けた跡があり、一休の遺髪を植えたと伝えられている。

 

(この上の2枚の写真は、酬恩庵・一休寺のHPより)

 鐘楼、東司(お手洗い)僧侶の居住の場で食を調える場である庫裏、唐門、浴室も、慶安3年(1650)に前田利常により再建され、重文である。梵鐘は元和9年(1623)の造り。浴室は、蒸し風呂で、本尊として入浴時に悟りを開いた跋佗婆羅が祀られている。

 

 

 虎丘庵は、一休禅師が晩年亡くなるまで、森女(森侍者)と暮らした住居。茶室造りの建物で非公開だが、典雅な檜皮葺の屋根が生垣越しに見える。応仁の乱の戦禍が波及してきたため禅師74歳の応仁元年(1467)、京の東山から移築されたもので、江戸時代初期に修復されている。茶道の祖・村田珠光をはじめ、連歌師の柴屋軒宗長、能作者の金春禅竹などの文化人がこの庵を訪ね、当時の文化サロン的役割を担っていた。

 宗純王廟は、一休禅師の墓所で、宮内庁が皇族の陵墓として管理しているため、門内への一般の立ち入り・参拝は不可である。ただし、門の扉にある「菊花紋章」の透かし彫から中を窺うことは可能であり、一休禅師の墓を祀る法華堂と、村田珠光作と伝えられる禅院式の枯山水庭園の一部が見える。

 

(この写真は、酬恩庵・一休寺のHPより)

 方丈の3つの庭園は、松花堂昭乗、佐川田喜六、石川丈山の合作といわれる禅苑の枯山水庭園で、いずれも国指定名勝となっている。南庭は、宗純王廟と虎丘庵の屋根を生垣越しに見る庭園で、南の斜面を利用してサツキの刈込があり西に大きい蘇鉄が植えられている。その前面には、白砂が敷き詰められており大海を現している。東庭は、大小で十六羅漢になぞらえたとされる。北庭は、禅院枯山水の蓬莱庭園である。東北隅に約2メートルの巨石を配して、いわゆる観音石とし、これに他の集団石組をもって枯滝落水の様子を表現している。



 

 そのほか、能楽観世流の音阿弥(三郎元重)をはじめとする能楽師の墓、六角氏一族の墓などがある。