「花手水」と眼病平癒の柳谷観音

金澤成保 

 

 長岡京市の山間にある西山浄土宗の柳谷観音、正式名称・楊谷寺(ようこくじ)は、1200年以上の歴史を持つ古刹で、眼病平癒のご利益を得られると信仰されてきたことから、今回参拝をさせていただいた。ご本尊は、十一面千手千眼観音菩薩。当寺へ通じるバス路線がないため(縁日の17日には、シャトル・バスがでる)、阪急長岡天神駅からタクシーに乗り(運賃は1900円)、帰りは1時間10分ほど山間・竹林の府道を歩いて下った。

「花手水」と「心琴窟」

 柳谷観音は「アジサイの寺」として知られるが、「花手水」発祥の寺でもある。「花手水」とは、手水鉢に季節の花を浮かべて楽しむもので、当寺が発祥とされている。2017年に始められたのが、「コロナ禍」を経て全国に広まったといわれる。

 

   

 執事の方が、境内に花を植えようと考えたが、史跡の指定がされているためにできなかったことから、フラワー・ボックスにヒントを得て、手水鉢に切花を飾ったそうである。関西では信徒による「柳谷講」が盛んであった。境内には、御詠歌がBGMのように、流れているのも心地よい。

 

   

 上書院の庭には、埋めた甕の空洞で水滴の音が共鳴し琴の音に似た妙音を響かせる、水琴窟「心琴窟」の水の響きに心が和ませられる(画面をタップすると聞こえます)。

 

          

柳谷観音の縁起と境内

 寺伝では、清水寺開祖の延鎮が大同元年(806)に開山したとされ、延鎮が「夢告」によりこの地で十一面千手千眼観音菩薩を感得し、堂を建て安置したのが始まりとされる。清水寺と同じ開祖であり、同じく十一面千手観音菩薩を本尊に持ち、清水に恵まれることから「西の清水」ともよばれてきた。毎月縁日の17日には、本尊が開帳される。

 

(写真は、ご本尊・十一面千手観音菩薩立像。長岡京市教育委員会提供)

 その後、空海が度々ここで修行をしたとされる。伝承によれば、弘仁2年(811)、楊谷寺を参詣した空海は、堂の傍らの湧き水で、眼のつぶれた小猿の眼を懸命に洗っている親猿を見かけると、小猿のために祈祷をおこなった。すると満願の日に小猿の眼が見事に開いた。それ以来、空海はその湧き水を眼病に効く霊水「独鈷水」(おこうずい)として広めたという。

 

 当寺に参拝・祈願してが眼病治癒にご利益があったとする事例が、近代に入っても多く報告されており、その霊験話やご利益話が、当寺のHPに紹介されている。

 

 「独鈷水」の霊水は、江戸時代、霊元天皇がそれで眼病を治癒したのをきっかけとして、以後歴代の天皇へ、明治になるまで献上された。東山天皇の皇妃・新崇賢門院が当山の本尊に祈祷したことにより、後の中御門天皇が誕生したことからその返礼として、中御門天皇が当山本尊を模し、「勅刻」したとされる観音像奥之院の本尊として祀られている。

 

 本堂は、江戸前期の建物で、本尊には眼病に霊あらたかな十一面千手千眼観音像をお祀りしている。普段は幕が下ろされて拝見できない。両脇立には、「勝敵毘沙門天王」と「将軍地蔵大菩薩」が祀られており、清水寺と同様になっている。

 

 本堂と書院の間には、「浄土苑」とよばれる浄土を表した庭園が築かれている。山の急斜面を巧みに利用した造りで、書院に座って眺める鑑賞式の庭園になっている。大きな立石は仏様に見立てられており、「十三仏」(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩、不動明王など)や「目菩薩」、「受菩薩」などが安置されている。


 立地を利用した三層に分かれた景色は、類まれなる眺望とされ、重森美玲氏の『古都百庭』にも 選ばれている。

 奥之院は、中御門天皇が父母の追善のため建立した観音像を祀り、左側にはその眷属二十八武衆が観音様とその信者を守護し、右側には歴代天皇の位牌が祀られている。建物は、大正時代焼失しており、昭和5年の再建である。

 柳谷観音は神仏習合の寺で、神様からもご利益をいただける。本堂の裏には、山の鎮守・守り神でもある大明神を伏見稲荷大社より勧請して祀った「正一位眼力稲荷大明神」が鎮座している。 とくに「先見の明」「心眼」を授けてくださるといわれている。

 


 

 奥之院の裏には、奥之院本堂の守り神である「奥之院眼力稲荷」が祀られている。観音様とそれを信仰する信者の守り神である。その隣には、男女和合・夫婦円満などにご利益があるといわれる愛染明王を祀る愛染堂が鎮座している。

 

 美顔・美心・芸妓達者を祈る「淀君弁天堂」がある。七福神の女神・弁財天と、その「前立ち」に当寺を厚く信仰していた淀君の像が祀られている。

 

 阿弥陀堂は、念仏堂とよばれていたが、淀君の寄進と伝わる厨子に阿弥陀如来、その右に中国の高僧・善導大師像、左には法然上人像が安置されている。