南河内の道明寺と道明寺天満宮

金澤成保 

 

 今回は、大阪・藤井寺にある道明寺道明寺天満宮をお参りすることにした。天王寺から近鉄南大阪線に乗って道明寺駅で降り、西に歩いて10分ほどの距離にある。この地域は、応神天皇陵や仲姫命陵をはじめとする古墳群が造営されていた地で、古代、古墳や埴輪の造成や葬送儀式に携わった土師氏故地である。

 

道明寺の由来と建築

 道明寺は、真言宗御室派の寺院で尼寺。当寺発祥とされる、道明寺粉や桜餅でも知られる。推古天皇2年(594)、聖徳太子の尼寺建立の発願により土師連八嶋がその邸を寄進して土師氏の氏寺である土師寺を土師神社(現・道明寺天満宮)の南に建立し、やがてその神宮寺となった。

 

 叔母の覚寿尼が住持になると、菅原道真公はしばしば当寺を訪れ、十一面観音を彫刻し、写経をおこなったと伝わる。この十一面観音が、今なお当寺の本尊(国宝)として祀られている。毎月18日と25日にご開帳されるので、この機会に参拝させていただいた。

(国宝・十一面観世音菩薩立像、写真は「Web 風土記 ふじいでら」より)

 

 延喜元年(901)、道真公が太宰府への下向の途次、当寺に立ち寄って覚寿尼に決別し、自像を彫刻して鶏鳴に起きて出立した。

     啼けばこそ 別れもうけれ 鶏の音の 鳴からむ里の 暁もかな

の歌を残している。道真公の死後、天暦元年(947)に、この十一面観音像を祀って土師寺道明寺と改めている。

 

 広大な敷地が寄進され、南大門、三門、五重塔、金堂、講堂などの七堂伽藍が、創建のころより並んでいた。後に藤原道長が大和・河内を巡歴したときに当寺に立ち寄り、法隆寺や四天王寺と比肩しうる堂塔伽藍を備えた寺院であると記している。

 

 中世には律宗本山である西大寺の末寺となりその保護を受け、また鎌倉・室町両幕府の祈祷寺として保護を受けた。元亀3年(1573)には、しかし、守護代遊佐氏の反乱による兵火にあい、七堂伽藍全山が焼亡した。後に、織田信長から朱印状を受け伽藍を再興し、豊臣秀吉・徳川家康にも朱印状受け保護を受けている。

 

 延宝2年(1674)に水害により諸堂社が壊滅し、正徳6年(1716)には石川が氾濫したため、享保9年(1724)、現天満宮境内の丘に移転した。これにより道明寺と天満宮の両者が、より一体化することになった。

 土師氏の氏寺として草創され、あわせて土師氏の氏神を祭祀する土師社と、菅原道真を勧請した天満宮などにより構成されていた道明寺は、道真公が十一面観音の化身であるとの信仰により、神仏混淆尼寺として明治維新を迎えた。明治になると「神仏分離令」が発布され、1873年(明治6年)、道明寺は天満宮と分離して東高野街道を隔てた西隣の現在地に移転して現在に至っている。

 


 

 境内には、大正8年(1919)の再建の本堂をはじめ、大師堂、護摩堂、庫裏、東門、楼門などがあるが、いずれも明治の移転後に移転されたか新設されたもの。楼門は、山門として造られたものではなく、もともと鐘楼堂として安政年間(1854-60)に建立されたものを、現在地に移して鐘楼門に改造し設置されたもの。境内には、往時の五重塔跡の礎石が残っている。

 

道明寺天満宮の由来と建築 

 垂仁天皇32年(西暦3)、 野見宿祢のみのすくねが、埴輪を創って殉死に代えた功績で、「 土師はじ 」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わって以来、遠祖である天穂日命(あめのほひのみこと)をお祀りしたのが土師神社、後の道明寺天満宮の始まりである。

 

 その後仏教が伝来し、伝承では推古天皇2年(594)聖徳太子の発願により、土師寺が土師神社の南側に建てられ、やがて神宮寺になった。土師氏から改姓して菅原氏が起こり、道真公もこの地を先祖の地・「故郷」として縁を結ぶことになる。叔母の入寺した土師寺をしばしば訪れ、十一面観音を彫刻し、五部大乗経を書写したと伝わる。

 

 道真公の死後、天暦元年(947)には、この道真公自刻と伝える十一面観音像を祀って土師寺道明寺と改めるが、これは道真公の号である「道明」に由来する。この時、土師神社内に天満宮も創建されたが、神仏習合が進み、時代が下ると道真公ゆかりの地ということで広く信仰を集めるようになり、土師神社は天満宮が中心となっていった。

 

 道明寺天満宮には、菅原道真公、土師氏の祖霊とされる天穂日命、そして道真公の叔母で土師寺の住持を勤めたといわれる覚寿尼公が祭神として祀られている。道真公の遺愛した硯、鏡などが神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。

 

 「高屋城の戦い」で社殿、五重塔などを焼失したが、同年天正3年(1575)織田信長から寄進を受けている。天正11年(1583)には豊臣秀吉から、文禄3年(1594)には江戸幕府からも寄進されている。その後石川が氾濫したため、道明寺が天満宮境内に移転し、道明寺と天満宮の一体化が進んだ。

 

 1872年(明治5年)「神仏分離」にともない、天満宮は土師神社に改称し、翌年に道明寺は分離し、道を隔てた西隣の地に移転した。1952年(昭和27年)に土師神社から道明寺天満宮と改称し、現在に至っている。

 

 本殿は、安土桃山時代の再建で、幣殿と拝殿は、延享2年(1745)再建とされる。いずれも権現造・檜皮葺である。神門は、1780年の築の道明寺の門を三井八郎右衛門奉納が移築したもの。

 

 能楽殿 は、- 文化12年(1815)の築で、大阪府下最古の能楽殿。大成殿(孔子廟)は、 祭神として孔子、孔門十哲を祀る。1901年(明治34年)の築。孔子像は小野篁の作だとされる。

 境内社には、元宮である土師社白太夫社和合稲荷社、土師八島を祀る八嶋社、巳神を祀る白光社、天御中主神を祀る霊符社がある。

 境内には、本殿の北に梅園があり、中央に石橋が設けられ上から梅の開花を楽しめるようになっている。神門の右手前に道真公が硯の水を採ったと伝わる夏水井、その隣に埴輪の製造地であったことを記念した登り窯が設置されている。

 展示している修羅は、近隣の三ツ塚古墳の出土品を復元したもの。天満宮に縁がある牛の像が祀られているが、神牛舎に納められた像もある。そのほか皇居遥拝所さざれ石、菅原道真公の先祖・野見宿祢が「相撲の祖」といわれることから土俵が置かれている。