平野郷・杭全神社と「だんじり祭」

金澤成保 

 

 杭全神社は、坂上氏と「平野郷」の氏神として尊崇されてきたが、もとは、熊野権現社熊野三所権現 とよばれていた。7月におこなわれる夏祭「平野だんじり祭」は、もっとも盛大に祭られる「だんじり」の一つで、毎年多くの観覧客で賑わう。

 

杭全神社の由緒と建築

 平安時代前期の貞観4年(862年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道牛頭天王(素盞嗚尊)を勧請し、祇園社(現在の第一本殿)を創建したのが最初と伝えられている。悪疫や地震・雷などの天災を鎮めようとして、平安時代初期から祇園会が次第に祭られていったことが背景にあるのかもしれない。『平野郷社縁起』には、「我はこの郷地主の神也(中略)祇園牛頭天王といふは我こと也。」と坂上氏に神託したとある。

 

 鎌倉時代初めの建久元年(1190)には、熊野證誠権現(伊弉諾尊:素盞嗚尊の父神)を建立する(現在の第三本殿)。『郷社縁起』によれば、一人の山伏が訪れ「證誠大権現の尊形を付属すべし、当社牛頭天王とならべてあがめ奉りなば、この郷を守らせ給ひ長く繁栄の地とならん」といったとある。

 

 元亨元年(1321)には、熊野三所権現(伊弉册尊、速玉男尊、事解男尊)を建立(現在の第二本殿)して諸殿を修復し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の詔勅を賜って当社を熊野権現の総社に改めている。

 

 明治になると、神仏分離によって仏教関係のものは概ねに移され、1870年(明治3年)、神仏習合時代の熊野権現社の名称を廃して杭全神社と改めた。日本で唯一連歌が残されている。連歌会は明治以降廃れていたが復活され、現在、毎月定期的に平野法楽連歌会が催されている。今では「インターネット連歌」がおこなわれている。

 南北に本殿、拝殿、大門、参道が並び、東西に摂末社が配置されている。第一本殿は、元禄3年(1690)建立の春日大社第三殿を、正徳元年(1711)に移築したもので。一間社春日造・檜皮葺きである。第二本殿は、 永正10年(1513)の建立で、三間社流造・檜皮葺きである。第三本殿(証誠殿)も、永正10年(1513)の建立で、一間社春日造・檜皮葺きの建物である。本殿は、ともに南面し重文である。

 

(写真は、「文化遺産見学案内所」のサイトより)

 本殿の南に、拝殿がある。安政5年(1858)の再建であるが、寛政年中(1789ー1801)の『摂津名所図会』を見ると、拝殿の位置には横長の建物が建っている。現在はないが、多宝塔も描かれているのが興味深い。

 

 第三本殿のすぐ東には、永正10年(1513)建立の若一王子社、同じく永正10年(1513年)建立の八王子社天満宮皇大神宮が祀られ、その南には鎮守社と、宝永5年(1708)再建の日本で唯一現存している連歌所が並んでいる。

 

 第一本殿のすぐ西には稲荷社、その南には主な神々を祀る十柱社、坂上氏の祖霊、「平野郷七名家」の祖霊、戦没者などを祀る田村社恵比寿社が祀られている。

 

 境内の東縁の河川沿いは、「環濠都市」の名残である濠や土居を偲ばせる。巨楠は樹齢千年で、「くすのき社」が祀られ、大阪府指定の天然記念物となっている。

 

盛大な「だんじり祭」

 「だんじり祭」といえば岸和田が有名だが、平野でおこなわれる「だんじり祭」も、盛大で迫力がある。前回のブログで触れたが、「門前茶屋 おもろ庵」のご主人からだんじり祭」の話を聞かせてもらい、実行委員会発行の立派な冊子をいただいた。その時の話をご紹介。

 

 「だんじり祭」は、毎年決まって7月11日から14日におこなわれ、岸和田の人たちと同様、「だんじり祭」で1年が回っているようなところがある。祭のために、地元から離れている人たちも多くが帰ってくる。夜間に国道を止めておこなわれる杭全神社への「宮入」が見せ場で、昔は明け方までやっていたが、今は警察の指導で、夜中までとなっている。

 

(写真は、杭全神社HPより)

 9町から地車(だんじり)がでる。平野郷は商人の町だが、昔は祭にケンカはつきもので、交差点で鉢合わせをすると、どちらが先かで殴り合いのケンカになった。今では曳行の時間配分やルールが徹底しており、ケンカはしなくなった。

 

 屋根の上で舞う「屋根方」(岸和田では「大工方」)が花形のようにいわれるが、地車の方向転換を命懸けで操る「前梃子」が、もっとも重要で責任のある役で、最近、地車の横転事故で死傷者がでたのは、コロナで3年実施されず、経験不足か代替わりで不慣れであったためではないだろうか。