六道の辻から勤王の志士の墓所へ

金澤成保 

 

 京都祇園の建仁寺の南側は、「この世」と「あの世」の境となり「人の世の無常とはかなさを感じる場所」とされ、「六道の辻」とよばれていた。謡曲「熊野」(ゆや)に、

   愛宕の寺も打ち過ぎぬ 六道の辻とかや 実に恐ろしやこの道は 冥土に通ふなるものを

   心ぼそ鳥辺山 煙の末も うす霞む

と謳われている。今では市街地となっているが、明治までは松原通などの一部をのぞいて空地が広がり、六波羅蜜寺六道珍皇寺西福寺などの仏堂が建っていた。

 

 六道とは,仏教でいう地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六種の冥界をいい、人は生前の業因により、死後はこの六道を輪廻転生するという。 この地が六道の分れ道で、冥界への入口とも信じられてきた。閻魔を補佐した小野篁が夜ごと冥府通いのため、六道珍皇寺にある井戸をその出入りに使っていたとの伝説から、その門前を「六道の辻」と称された。西福寺は,空海が鳥辺野の無常所の入口にあたる地に地蔵堂を建て,土仏地蔵尊を祀ったことに始まると伝える。


 「六道の辻」が、中世以来「冥土への通路」として見なされたのは、この地が京の三大葬送の地であった鳥辺野に至る道筋にあたり、鳥辺野に送られる亡骸の無常所とされ、この地で「野辺の送り」がされていたことよる。

 

 この地域には、栄西禅師が建仁寺を建立するにあたり、その鎮守社として建久2年(1191年)に創建した京都ゑびす神社がある。西宮神社と今宮戎神社とならぶ三大えびすの一つであり、えびす信仰におけるは、京都ゑびす神社独自の「御札」の形態が広まったものだとされている。

 

 禅居庵は、建仁寺の塔頭として元弘年間(1331 - 1333)に創建された。本尊は聖観音菩薩であるが、秘仏の摩利支天を祀る寺として知られている。境内には狛猪など数多くのの像や彫刻があるが、これは摩利支天像が猪に乗っていることに由来している。

 

 六道珍皇寺を出て東に進むと、東大路の向こうに「八坂の塔」すなわち法観寺の五重塔が、亡くなった人々の魂が眠る東山鳥辺野へ導くかのうように、荘厳な姿を見せている。伝承によれば、五重塔は崇峻天皇5年(592)、聖徳太子により建てられたとされている。今では、カップルのフォト・スポットとして人気が高いが、近辺には八坂東院(雲居寺の前身)があって黄金八丈(実寸四丈か)の阿弥陀如来の大仏が鎮座して、古代より信仰の場であった。

 

 二年坂の途中を東に折れて進むと、「幕末志士葬送の道」が見えてくる。階段を登ると、坂本龍馬や中岡慎太郎、長州藩や土佐藩の勤王の志士の葬儀をおこなった霊明神社に出る。お参りしたあと、北に隣接する京都霊山護国神社に向かった。

 霊山護国神社は、天誅組などの勤王の志士たちの御霊を奉祀するために、京都東山に社を創建せよとの明治天皇による詔が発せられ、霊山の山頂から山腹にかけて祠宇を建立したのが当社創建のはじまりであり、招魂社・護国神社の最初でもあった。

 

 祭神は、坂本龍馬中岡慎太郎、木戸孝允、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣、久坂玄瑞、高杉晋作、所郁太郎、宮部鼎蔵、田岡俊三郎ら幕末勤王の志士1,356柱と、明治以降の戦死者である。霊山墓地に祀られる坂本龍馬中岡慎太郎の側には、二人の彫像が掲げられ、参拝者を集めていた(参拝料300円)。新しい国家建設を夢見て、若くして死んでいった志士たちに合掌。