臨済宗の大本山、妙心寺

金澤成保 

 

(大庫裏の雲龍図、法堂の実物は撮影禁止)

 洛北双ヶ丘の東に、臨済宗の大伽藍、妙心寺がある。全国で3400ヶ寺あるといわれる妙心寺派大本山で、境内には48ヶ寺の塔頭がある。北の山麓にある石庭で有名な龍安寺は、妙心寺の境外塔頭である。京都の禅寺は、室町幕府の庇護と統制を受けた「禅林」または「叢林(そうりん)」とよばれた諸寺と、それとは一線を画す在野の「林下」(りんか)とよばれる寺院があった。妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的な寺院である。

 

 京都には、臨済宗大本山ごとの特徴を表す「禅面」という表現があるが、妙心寺は、経営がしっかりしているといわれたことから「算盤面」(そろばんづら)とよばれた。ちなみに、建仁寺は「学問面」、大徳寺は「茶面」、東福寺は「伽藍面」、南禅寺は「武家面」、相国寺の「声明面」とされている。

妙心寺の歴史

 双ヶ丘の東は、公卿の邸に四季折々の花が咲き「花園」とよばれ、花園上皇の御所があった。花園上皇は、建武2年(1335)出家して法皇となり、花園御所を禅寺に改めることを発願した。開山は、美濃国から招致した関山慧玄である。禅風は厳格で、生活は質素をきわめたといわれる。

 

 足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、妙心寺は室町幕府将軍の足利義満の怒りを買い、応永6年(1399)寺領を没収され、妙心寺は一時中絶することとなった。妙心寺が復活するのは、永享4年(1432)のことで、尾張国から日峰宗舜を迎えて妙心寺を再興させた。このため日峰は妙心寺中興の祖とされている。

 

 妙心寺は応仁の乱(1467年 - 1477年)で伽藍を焼失したが、六代目住持の雪江宗深の尽力により復興する。本能寺の変で信長が討たれると、信長の妹のお市の方が信長の百箇日法要を妙心寺で執りおこなった。その後、戦国武将などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。

 

妙心寺の建築

 法堂(はっとう、重文)は、 明暦3年(1657)の再建で入母屋造、一重裳階付き。天井には狩野探幽筆の雲龍図が描かれている。どの角度からも目が合うことから「八方睨みの龍」の別名もある。堂内には、日本最古の銘鐘である文武天皇2年(698)鋳造の国宝梵鐘「黄鐘調の鐘」が展示されている。

 

 仏殿(重文)は、文政10年(1827)の再建で、入母屋造、一重裳階付き。本尊は天正年間(1573年 - 1593年)作の釈迦如来で、脇侍は摩訶迦葉と阿難尊者。本尊の後方には、祖師堂、土師堂、功労者の位牌を祀る祠堂がある。

 

 

 大方丈(重文)は、承応3年(1654)の再建で、障壁画は狩野探幽と狩野洞雲の筆。入母屋造、檜皮葺の建築で、東に 慶長8年(1603)建立の小方丈(重文)が隣接している。それぞれの庭園は、国指定の史跡・名勝である。

 

 大庫裏(重文)は、僧侶の食生活を支えた厨房で、享禄元年(1528)の再建、承応2年(1653)の改築である。もと杮葺きであったが瓦葺きに改められている。大人数の食事を賄うための調理場が、興味深い。守護として韋駄天像が祀られているが、雲龍図の天井画がここにもある。

 

  

 三門(重文)は、慶長4年(1599)の再建で、正面の柱間5間のうち中央3間が通路の五間三戸二重門である。上層には、円通大士(観音)と十六羅漢像を安置する。

 

 経蔵(重文)は、延宝2年(1674)再建で、輪蔵の下部には四天王と梵天、帝釈天、阿形と吽形の金剛力士の八つの像がある。

 

 浴室(重文)は、明暦2年(1656年)再建で、もともとは明智光秀の叔父である大嶺院の密宗により光秀の菩提を弔うために建立された。そのため「明智風呂」の別名がある。守護として跋陀婆羅菩薩が祀られている。

 

 鐘楼は、もともと春日局によって寄進されたもので、重要文化財に指定されていたが、1962年に放火により焼失した。現在のものは春日局が塔頭・麟祥院に寄進したものである。

 

 勅使門(重文)は、慶長15年(1610)の建立で。三門、放生池など伽藍の正面に位置し、勅使や住持が着任する際に用いられる。

 

 南門(重文)は、慶長15年(1610年)の建立で、 南総門ともよばれる。切妻造、本瓦葺きの薬医門で、同年建立の北門とほぼ同じ構造である。