御室御所の仁和寺

金澤成保 

 

 北野天満宮をお参りした後、御室の仁和寺を訪れた。京福電鉄北野線に乗って御室仁和寺駅で降りると、北に仁王門が迎える。寺院を創設した宇多天皇以来明治まで、皇族が住職となった門跡寺院で、真言宗御室派の総本山としての信仰空間の厳粛さがある一方、宮廷文化の雅やかさも感じる寺院である。「御室桜」で知られる桜の名所としても有名である。

 

 

仁和寺の歴史

 仁和寺の歴史は、仁和2年(886)光孝天皇が当寺の建立を発願されたことに始まる。しかし、翌年崩御されたため、宇多天皇がその遺志を継がれ、仁和4年(888)に完成し、寺号も元号から仁和寺とした。

 

 宇多天皇は寛平9年(897)に譲位し、出家して仁和寺の第1世法皇となった。以降、皇族が代々住職を務め、平安時代から鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保っていた。しかし応仁元年(1467)に始まった応仁の乱で、仁和寺はほとんどを兵火で焼失した。その間、本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに守られた。

 

 寛永11年(1634)、仁和寺住職・覚深法親王は、上洛していた徳川幕府の将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾された。さらには慶長時代の御所建て替えとも重なり、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完了。ようやく創建時の姿に戻ることができた。

 

仁和寺の伽藍

 仁王門は、仁和寺の南正面に建つ巨大な門(重文)。高さは18mを超え、重層、入母屋造、本瓦葺で、平安時代の伝統を引く和様で統一されている。門正面の左右に阿吽の二王像、後面には唐獅子像を安置する(同じく重文の中門は、補修工事中で非公開であった)。
 

 境内中央北奥にある金堂は、本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂で、慶長年間(1596年ー1615年)造営の御所内裏紫宸殿移築した現存する最古の紫宸殿であり、国宝に指定されている。蔀戸を用い、御所建築の風格がある。堂内は四天王像や梵天像も安置されている。

 

 境内の北辺西に、方形造・檜皮葺の御影堂(重文)がある。弘法大師、宇多法皇、第2世信親王の像をお祀りするお堂で、慶長年間造営の清涼殿の一部を賜り再建された。境内北辺東に、宝形造・本瓦葺の経堂(重文)がある。寛永〜正保年間(1624年ー1648年)の建立といわれ、正面に両開きの板唐戸、左右に花頭窓をつけ、禅宗様で統一されている。内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)を設け、その中には天海版の『一切経』が収められている。

 

 境内中央、五重塔の反対側に、観音堂(重文)がある。入母屋造、本瓦葺で前後に向拝がついた建物です。本尊は千手観音菩薩で、脇侍として不動明王・降三世明王、その周りには二十八部衆が安置され、須弥壇周りには、仏・高僧などが極彩色で描かれている。内部は、通常非公開とされている。

 

 

 五重塔は、寛永21年(1644年)建立で重文である。総高36m余りで、東寺の五重塔と同様に、各層の幅にあまり差をつけない形式。塔内部には、大日如来、その周りに無量寿如来など四方仏が安置され、中央に心柱、心柱を囲むように四本の天柱が塔を支える構造となっている。境内のいろいろなところから遠望され、仁和寺景観のアクセントとなっている。

 

 

 境内北辺東にある九所明神(重文)は、仁和寺の鎮守社。社殿は三棟あり、八幡三神を本殿に、東側の左殿には賀茂上下・日吉・武答・稲荷を、西側の右殿には松尾・平野・小日吉・木野嶋の計九座の明神を祀っている。現在の建物は寛永年間(1624年ー1644年)に建立されたもの。水掛不動は、境内北辺の鐘楼と御影堂の間に位置し、石造の不動明王を安置する。不動明王に水を掛けて祈願する事から、水掛不動とよばれている。

 

仁和寺の「御所」と庭園

 境内の南西に、「御室御所」とよばれる一画がある。皇族出身の住職が生活をし公務をおこなった場所で、拝観料(800円)を払うと、宮廷文化を偲ばせる建物とその内部、庭園を見学することができる。

 

 勅使門は、檜皮葺の四脚唐門で、前後を唐破風、左右の屋根を入母屋造とした建築。大正2年(1913年)の竣工であるが、伝統的和様に設計家・亀岡末吉が独自の意匠を取り入れたものとなっている。

 

 宸殿南庭の西側に建立された白書院には、福永晴帆画伯による松の絵などの襖絵が飾られている。宸殿は、儀式や式典に使用される御殿の中心建物で、寛永年間に御所から下賜された常御殿がその役割を果たしていたが、明治20年(1887年)に焼失。現在の建物は大正3年(1914年)竣工されたもので、檜皮葺、入母屋造。内部は三室からなり、襖絵や壁などの絵はすべて原在泉の手によるもので、四季の風物をはじめ、牡丹・雁などが見事に描かれている。

 

 

 

 宸殿の西側に建立された黒書院は、京都花園にあった旧安井門跡の寝殿を移して改造したもので、明治42年(1909年)の竣工。設計は安田時秀。内部は6室からなり、堂本印象が描いた襖絵が室内全体を飾っている。宸殿の北東にみえる霊明殿は、仁和寺の院家であった喜多(北)院の本尊 薬師如来坐像を安置する為に明治44年(1911年)に建立された。設計は勅使門と同じく亀岡末吉。

 

 

 

 宸殿の南側にある南庭には、左近の桜、右近の橘が植えられ、その前方に白砂と松や杉を配した、簡素の中にも趣のある庭となっている。

 宸殿の北側にある北庭は、池泉式庭園で南庭とは対照的な雅な庭園となっている。斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に茶室の飛濤亭、その奥には中門や五重塔を臨む事ができる。庭の制作年は不明だが、元禄3年(1690)には加来道意ら、明治〜大正期には七代目小川治兵衛によって整備され現在に至っている。