「今木神」を祀る洛北の平野神社

金澤成保 

 

 洛北は北野天満宮の北西に、平野神社がある。伊勢神宮や賀茂神社などと同じく、朝廷から特別な奉幣を受ける「二十二社」の一つで、国家にとって重要な神社であった。季節ごとの花木が美しく、花山天皇のお手植えの桜や「魁桜」など、とくに桜の名所として知られている。

 

 

平野神社の祭神と由緒

 平野神社の祭神は、次の4柱で本殿に北からこの順で1柱づつ祀られている。

 ・今木皇大神(いまきのすめおおかみ)「平野神」とも称される。当社の主神である。

 ・久度大神(くどのおおかみ)は、竃神である。衣食住など生活安泰の神。

 ・古開大神(ふるあきのおおかみ)は、邪気を払う斉火の神。不浄を斎み清めた火。

 ・比売大神(ひめのおおかみ)は、主祭神の妻や娘などの女神。生産力の神とされている。

 

 

 主神の今木神は、もともとは桓武天皇生母である高野新笠(たかののにいがさ)の祖神として平城宮田村後宮に祀られていた。田村後宮の今木神が、延暦元年(782)に従四位上の神階を奉叙された記事が残されている。桓武天皇による平安京遷都にともなって、この今木神が大内裏の北方の平野の地に移され祀られたのが平野神社の創建になるとされる。当初境内地は、方八町余(約1500m四方)の広大な敷地であったといわれる。

 

 高野 新笠は、光仁天皇の側室・夫人で、山部親王(桓武天皇)、早良親王などの生母となり、田村後宮に今木神をお祀りすることが認められたのではなかろうか。高野新笠は、桓武天皇の即位後に皇太夫人に、薨去後には贈皇太后、贈太皇太后の称号が贈られている。先祖は百済武寧王であるといわれ、父は百済の夫餘氏の子孫で和氏の和乙継(やまとのおとつぐ)とされている。「今木」は「今来」に通じ、新しくきた人、渡来系氏族の意味ともされており、高野新笠の出自と今木神の名称でお祀りしたことと関係があると見るのが自然であろう。

 

 祭神は、古代には皇太子守護の性格を持ったほか、臣籍降下した氏族や土師氏系氏族から氏神として見なされ、源氏・平氏・高階氏・大江氏のほか、中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏らから氏神として崇敬されており、「八姓の祖神」と称されたという。全国でも数社に限られる「皇大御神・皇大神」「神宮」、宮中神である「神院」の称号が与えられ、宮中外の宮中神であったことがうかがえる。

 

 中世以降は荒廃したが、近世に入り寛永年間(1624 - 1644)には西洞院時慶によって再興が図られ、現在の本殿が造営された。近世の社領は100石であった。

 

平野神社の建築

 本殿(重文)は、4柱の祭神を祀る4殿・2棟からなる。春日造の檜皮葺一間社の社殿を2殿づつ横棟で渡して「合の間」をつくり、正面に向拝をつけた珍しい建築様式で、「比翼春日造」「平野造」と称されている。

 

 宮中神であるから本殿が東向きになっているとの説明がある。宮中の八神殿は、古くは西面していた記録もある。八神殿は平安時代中期には西向きに鎮座していたが(「神祇官西院指図」)、のちには東向きに置かれている。平野神社の例大祭では全国唯一、皇太子が奉幣する定めとなっていた。皇太子は、「東宮」とよばれ、東は万物の生長し始める方角であり、また易では東を長男とされる「震」とされていた。本殿の東向きは、当社が皇太子守護の宮であったことが理由とも考えられるのではないか。

 

 拝殿は、釘を用いない接木の工法で建てられ、「接木の拝殿」と称される。四方を吹き放す舞殿形式である。慶安3年(1650)、御水尾天皇中宮の東福門院(徳川秀忠の娘)により寄進された。平成30年、台風により倒壊したが再建されている。

 

 中門は、唐破風造、檜皮葺の門で承応2年(1653)ごろの建立とされる。南門は、切妻造、桟瓦葺の薬医門で、慶安4年(1651)御所の旧門を下賜された。

 

 天穂日命をお祀りする摂社の縣神社(あがたじんじゃ)が、本殿の南に鎮座する。 社殿は、寛永8年(1631)の造営、形式は一間社春日造で、屋根は檜皮葺。この社殿は、江戸時代前期の春日造建築を知る上で貴重とされている。

 

(写真は「Wikipedia平野神社」より)

 末社には、八幡神社四社併祀社(春日神社、住吉神社、蛭子神社、鈿女神社)、出世導引稲荷神社猿田彦神社がある。