横浜・三溪園の庭園と建築

金澤成保 

 

 前回は、横浜本牧にある三溪園を開設した実業家・原富太郎(三溪)の「人となり」についてお話ししたが、今回は三溪園の庭園建築の概要について、ご報告したい。三溪園は、四季折々の花々で彩られ国の名勝に指定されている。園内には多数の日本建築が移築されているが、その多くが重要文化財であり、池や丘の緑の自然と建築の人為の調和を探求した日本庭園の真髄を示しているといえる。

 

三溪園の庭園

 北側に正門で入園料(700円)を払い園内に進むと、目の前に雄大な大池が広がる。奥の丘には、三溪園のランドマークである三重塔が森越しに見え、和舟が浮かぶ池のほとりには、種々の花木が植栽されており、季節ごとに移ろう景色を楽しむことができる(以下「三溪園HP」、「旅探」三溪園などを参考)。

 

(写真は「三溪園HP」より)


 は、桜やツツジ、藤などが見頃で、大池に映る桜の姿は美しく、お花見も楽しめる。は青々と茂った木々も爽やかで、花菖蒲や蓮、睡蓮といった池に咲く花が美しい季節となる。は、紅葉シーズンでイチョウやモミジの葉が色づき、風情ある雰囲気を楽しめる。には梅や椿、スイセンなどが美しい時期で、とくに梅は、原富太郎が力を注いだ部分でもあり、竜が地を這うような枝ぶりの「臥竜梅」など、約500本が植栽されて、とても美しい。

 

 大池の向かいには、蓮池睡蓮池もあり、見頃の時期には美しいピンク色の花が咲く。三溪園は、蓮の名所として知られ、 原三溪がもっとも愛した花といわれている。「花しょうぶ」が開花しはじめのころは、紫の花が一面に咲き大池と三重塔の景色を彩る。紫陽花なども美しい。また、大池には、鴨や鯉、カメなど生き物の姿も見ることができる。

 

三溪園の建築

 園内のエリアは2つに分かれており、東側が外苑、西側が内苑である。外苑は、1906年(明治39年)に一般向けに公開されたエリアで、内苑は、原家が私邸として使用していたエリアである。外苑では、小高い丘にランドマークの「三重塔」がそびえ、原富太郎の自邸を復元した「鶴翔閣」、入母屋合掌造りの民家「旧矢箆原家住宅」(やのはらけじゅうたく)、「林洞庵」などの茶室、「旧燈明寺本堂」、草庵風の「横笛庵」、鎌倉から移築した「旧東慶寺仏殿」である。

 

 「鶴翔閣」はまた、横山大観や前田青邨たちが滞在して絵を制作するなど、近代日本の「文化サロン」としての役割も果たした。哲学者の和辻哲郎が、「古寺巡礼」として結実させる旅をここから出発したことでも知られている。「林洞庵」は、宗徧流林洞会から寄贈された茶室で、「横笛庵」の横笛とは、平清盛の娘であり、平重盛の従者・斎藤時頼との悲恋の話を描いた「平家物語」で知られる。

 

 「三重塔」、すなわち旧燈明寺三重塔は、室町時代の康正3年(1457)に建てられた、園内の建造物の中でもっとも古い建物である。小高い丘に建てられたその姿は三溪園を象徴する存在となり、「臨春閣」や「聴秋閣」の室内からは、「三重塔」が美しく眺められるような配置の工夫が見られる。

 

 

 「旧燈明寺本堂」は、「三重塔」と同じく室町時代の建築で、「三重塔」が移築されていた縁により三溪園に寄贈され当初の中世密教寺院の様式に復原された。「旧東慶寺仏殿」は、縁切寺・駆け込み寺と称された鎌倉・東慶寺にあった江戸時代初期の禅宗様の建物で、三溪園の鎮護とするために移築したと記されている。

 

 

 「旧矢箆原家住宅」は、飛騨白川郷の入母屋合掌造りの民家で、飛騨の三長者のいわれた格式の高さを伝える、現存する合掌造りでは最大級の建物である。蒐集された民具が展示され囲炉裏では毎日火が焚かれおり、昔の白川郷での暮らしを感じさせてくれる。

 内苑には、数寄屋風書院の「臨春閣」を中心に古建築で構成され、繊細な建築と庭が融和して美しい。雁行して配置された建築は、「東の桂離宮」と称賛されている。内苑には、諸大名の控えの間とされる「月華殿」、二条城から移築されたとされる「聴秋閣」、竹林に囲まれた「蓮華庵」など、歴史的価値の高い建造物が多く建てられている。

 

(写真は「三溪園HP」より)

 「臨春閣」は、慶安2年(1649)に、紀州徳川家別荘「巌出御殿」と考えられた建物で、 屋根の形と建物の配置が変更されたが、内部は元の状態が残され、狩野派を中心とする障壁画と、繊細・優美な数寄屋風書院造りの意匠を見ることができる。

 

 

         (写真は「三溪園HP」より)

 

 「白雲邸」は、大正9年(1920)に、夫人と暮らすために建てた隠居所で、廊下で連結されていた「臨春閣」に合わせた造り。 イスとテーブルの使用やトラス構造、電話室、浴室のシャワーといった、近代的な要素を和風建築へ導入する試みもみられる。「旧天瑞寺寿塔覆堂」は、天正19年(1591)に、豊臣秀吉が母・大政所の長寿を祈って建てた生前墓の寿塔を覆っていた建物。桃山時代らしい豪壮な彫刻や柱とその上の組物などには、かつて鮮やかな彩色が施されていた。原三溪が内苑に移築した最初の古建築。

 

(写真は「三溪園HP」より)

 「月華殿」は、慶長8年( 1603年)に徳川家康が京都伏見城内に建てた諸大名の控えの間であった、と伝えられ、海北友松作とされる障壁画や菊の透かし彫りの欄間を見ることができる。「金毛窟」は、一畳台目の極めて小さな茶室で、月華殿と連結されている。「天授院」は、鎌倉の建長寺近くにあった心平寺の地蔵堂の建物と考えられ、室町時代の禅宗様が見られるが、修理の際に慶安4年(1651)の墨書銘が確認されている。

 

 「聴秋閣」は、徳川家光の上洛に際し、元和9年(1623)に二条城内に建てられ、のちに家光の乳母であった春日局の嫁ぎ先の稲葉家の江戸屋敷に伝えられてた建物。3つの屋根を組み合わせた外観から移築前は「三笠閣」とよばれていた。入口部分の床面には木製のタイルが敷き詰められおり、水辺から舟遊びをすることを意識した意匠であったと考えられている。原三溪はその名を「聴秋閣」と改め、周辺を秋に紅葉を楽しむ風情とした。

 

 「春草廬」は、織田信長の弟・織田有楽の作とされる江戸時代初めごろの茶室で、宇治の三室戸寺金蔵院から移築された。かつては「九窓亭」とよばれた三畳台目の席は、その名のとおり九つの窓が美しく構成されている。「蓮華院」は、原三溪が自らの構想により建てた茶室。土間中央の太い円柱とその奥の壁の格子は、宇治・平等院鳳凰堂の古材と伝えられている。

 

 「御門」は、平安神宮近くの西方寺にあった、1708年頃に造られた門で、一般に開放されていた外苑と、原家の私的なエリアの内苑の境界として使用された。門の先にある「臨春閣」は、豊臣秀吉が建てた桃山時代の聚楽第の遺構とされ、「桃山御殿」と呼ばれていたため、この門も「桃山御門」「桃山御殿門」とよばれていた。