横浜・三溪園と原富太郎

金澤成保 

 

 三溪園(さんけいえん)は、横浜本牧の海岸近くにある日本庭園で、17.5haの広大な敷地に、17棟の日本建築が配置されている。うち10件12棟が、国の重要文化財である。横浜の実業家、原富太郎によって1906年に造成・公開され、富太郎の死後も古建築が移築されて、今日まで維持保全がされてきた。名称の三溪園は、富太郎の号である三溪からつけられている。2006年に、国の名勝に指定された。このブログでは、その建築や庭園については、別の項で扱うとして、第一級の人物といえる原富太郎の「人となり」についてお話ししてみたい。

 

 原富太郎は、美濃国厚見郡(現在の岐阜市)の庄屋、青木家の長男として1868年に生まれた。東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学するため上京し、学生のかたわら跡見女学校(現在の跡見学園女子大学)の講師を勤めた。跡見女学校の創始者である跡見花蹊に、その教養と人格を認められたためである。富太郎の妻となる屋寿子は、横浜屈指の財閥・原善三郎一人娘で、跡見女学校で学んでいて富太郎と相思相愛の仲となった。道端で屋寿子の下駄の鼻緒が切れたとき、富太郎がすげ替えてあげたのが恋の始まりといわれる(以下、主に「国際留学生協会」向学新聞、「岐阜県図書館HP」を参照)。

 

 善三郎は、嫡男に恵まれず、屋寿子の婿には最高の男を探すと息巻いていたそうだが、跡見花蹊の強い推薦もあるので、縁談を断るつもりで富太郎と会うことにした。ところが善三郎は、富太郎の落ち着いた物腰、誠実な態度に魅せられてしまい、「屋寿子の婿には、この男しかいない」と跡見花蹊に頭を下げて婿入りを懇願したそうである。こうして富太郎は、1891年に原家の婿養子となって屋寿子と結婚した。富太郎23歳、屋寿子18歳であった。

 

 学問や芸術の道を志した富太郎であったが、豪商の若旦那となり、下男になったつもりで修行したといわれる。その時、富太郎を慰めたのが、妻の屋寿子の存在であった。富豪の一人娘に生まれながら偉ぶることもなく、入婿であった夫を常に主人として立てていた。従業員からは、「大将(富太郎)は偉い。奥さんはもっと偉い」と、いわれていたそうである。もう一つの慰めが、古美術鑑賞や収集で、仕事が終わると東京に出向き、道具屋巡りをするのが常だったそうである。こうして、のちの大蒐集家への道が開かれた。

 

 原家に入って8年後、養父・善三郎が死去し、原商店の全責任が富太郎にのし掛かかることになった。富太郎は、旧態然とした経営から近代経営への改革に取り組んだ。給与体系の見直しや合名会社への変更、さらに生糸直輸出を実施した。輸出会社を設けて、高い相場の海外で直接販売するのである。良質で安価な日本の絹製品は世界で人気を博し、原輸出店は、三井物産、三菱商事などと並ぶ日本の5大輸出商社の一つにのし上がり、「世界の原」とまでよばれるようになった。1915年、帝国蚕糸社長、1920年には横浜興業銀行頭取に就任している。 

 

 

 1902年、富太郎は一家で横浜の本牧に移り住み、三溪園の造成を開始した。それを機に富太郎は、自らを三溪と称するようになっている。広大な敷地を巨大なキャンバスに見立てて、自らの美意識で造園をおこなった。「石は、自然に水で洗われたように置かなければならない」といって、自分の手で石を置いたと伝わる。

 

 三溪は、商売で稼いだお金を惜しみなくつぎ込み、古建築の移築を進めるとともに、古美術の大々的な収集をおこなった。三井物産の創始者である益田孝(鈍翁)と並ぶ古美術の大蒐集家となったが、個人の趣味や楽しみからというよりも、日本の古美術を海外に流出させてはならないとの使命感に動かされていたといわれる。三溪園や集めた美術品は、「公のものとせよ」といって誰にでも惜しみなく見せた。1906年には、三溪園を市民に無料で開放している。自分自身も書や日本画をよくし、三溪園には小林古径、前田青邨、下村観山、横山大観などが集まり、新鋭画家の育成にも力を入れた。

 

 

 街を瓦礫の山と化し、14万人を超える死者を出した1923年の関東大震災は、三溪と屋寿子人生を大きく変えた。屋寿子の判断で、家を失った人々のテント設営に三溪園を開放し、炊き出しを提供し続けた。三溪は、屋寿子を「よくやった。たいした女だよ、お前は」と誉めたと伝わる。

 

 

 三溪は、美術品収集もキッパリやめ、慈善事業に熱中していった。屋寿子は、私財を投げだして震災で親を失った子供たちのために孤児院を三溪園内に設け、三溪はそれを助けて横浜の復興にも立ち上がった。「横浜貿易復興会」と「横浜復興会」の会長に就任して大きな貢献している。震災により業者が保管していた生糸が焼失し、その損害を業者間で分担する協定をつくったが、多くの業者は分担金を支払う余力がなかった。三溪は、それを肩代わりしたといわれるが、その総額は当時のお金で2千万円といわれ、現在の額でいえば、数千億円にもなる金額だったといわれる。

 

 晩年の原三溪は、決して幸福に満たされたものではなかった。生糸が人造絹糸に敗れ、製紙工場の閉鎖を余儀なくされ、長男の善一郎が脳溢血で死去し、盟友の益田孝が急逝した。1939年、追うようにして三溪は70歳の生涯を閉じた。遺言で香典供花を辞退し、実に清楚な葬式とした。棺を飾るのは、三溪園の池に咲いた数本の蓮の花が添えられたといわれる。危急に際し三溪がとった行動は、他のため全体のため自己の利益を顧みないものであった。巨万の富を築きながら、それに溺れることなく、高潔な人生を貫いた。彼は常日頃、「自分のパンを心配するのは経済の問題だ。他人のパンの心配するのは精神の問題だ」といっていたといわれる。自らの富を社会のために使い、美術や芸術も庶民のものにしようとした原三溪の想いを、三溪園に感じ取ることができるのではなかろうか。