真言宗の総本山、智積院

金澤成保 

 

 京都東山七条を東に行くと、東大路通り沿いに真言宗智山派の総本山、智積院がある。智積院は、もともと紀伊根来にある大伝法院(現・根来寺)の塔頭であった。

 


 寺伝によると、長承元年(1132)「中興の祖」とあおがれる興教大師・覚鑁(かくばん)が高野山に大伝法院を建て、荒廃した高野山の復興と真言宗教学の振興に尽くした。その後教義上の対立もあって、保延6年(1140)には、修行の場を高野山から根来山へと移し、そこを新義真言宗の根本道場とした。

 

 

 鎌倉時代の中頃に、頼瑜(らいゆ)僧正が出て、大伝法院を高野山から根来山へ移した。 これにより、根来山は、学問の面でもおおいに栄え、最盛時には、2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになった。智積院は、その数多く建てられた塔頭寺院のなかの学頭寺院であった。


 しかし、巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまった。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を高野山に逃れ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、智積院の再興の第一歩を京の東山にしるした。

(智積院『拾遺都名所図会』より)

 

 慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、玄宥(げんゆう)僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、祥雲禅寺も拝領して名実ともに智積院が再興され、その後、さらに境内伽藍が拡充された。こうして智積院は、弘法大師の真言教学の正統な学風を伝える寺院となるとともに、江戸時代前期には運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立した。こうして、智積院は学侶が多く集まるようになり、学山智山と称され多くの学僧を生み出した。

 しかし、幕末から明治維新になると、廃仏毀釈の波を受け、困難な時代をむかえた。明治2年(1869)には、土佐藩の陣所となっていた勧学院が爆発炎上、明治15年(1882)には金堂を焼失しているが、明治33年(1900)には智積院を総本山と定め、今日に至っている。

 

 大書院東側の名勝庭園(拝観料300円)は、桃山時代に造られた庭園で、山は中国の廬山を、池は長江を形どってつくられた利休好みの庭として有名。池泉鑑賞式庭園で国の名勝に指定されている。

 

 宝物殿も一見の価値がある。国宝の長谷川等伯・久蔵父子とその一門による「楓図」「松に立葵図」「桜図」は、桃山時代の障壁画の代表作で、少し暗めの照明の中に浮き上がるように見え、感動した。

 

(「桜図」智積院HPより)

 金堂は、昭和50年(1975)の再建で、鉄筋コンクリート造、入母屋造で瓦葺。本尊は金剛界大日如来。胎蔵界大日如来も祀られている。明王殿(不動堂)は、もとは江戸時代建立の大雲院本堂。平成4年(1992)に現在地に移築される。祀られている不動明王は「麦つき不動」と呼ばれている。大師堂は、寛政元年(1789)再建で弘法大師空海を祀る。

 鐘楼は、豊国社の末寺から移築したもので寛文7年(1667)の建立。梵鐘は元和2年(1616)の鋳造である。密厳堂は、 寛文7年(1667)の建立。新義真言宗の祖・興教大師覚鑁を祀る。求聞持堂(護摩堂)は、嘉永4年(1851)の建立。文殊堂ともよばれる。講堂は、平成7年(1995)の再建で木造。田淵俊夫の襖絵(墨絵)が奉納されている。

 神仏習合の寺院であったことから、神社も多く鎮座している。愛宕大権現天満宮白山大権現藤森天王社のほか、智積院の総鎮守である三部権現社春日大明神社、および九社明神社を祀った寛文7年(1667年)勧請の三社壇がある。