「東海の日光」静岡浅間神社
金澤成保
今回は静岡に訪れ、主な社寺をお参りすることにした。駿府城跡の北西に、静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)がある。壮麗な神社は淺間造と称せられ、江戸時代の学者・貝原益軒は「美麗なる大社なり。日本にて神社の美麗なる事、日光を第一とし、浅間を第二とすと云う」と、静岡浅間神社を日光東照宮につぐ美しい神社だと述べている。
当社は、もともとは独立した神社であった神部神社(かんべじんじゃ)、浅間神社(あさまじんじゃ)、および大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)の三社を祀るお宮で、境内社に麓山神社(はやまじんじゃ)、八千戈神社(やちほこじんじゃ)、少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)、玉鉾神社(たまほこじんじゃ)がある。
鎮座地の賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な山である神奈備山として尊崇されてきた。6世紀豪族の賤機山古墳が、当社の境内にある。また、静岡は秦氏が古代、開拓をおこなった歴史があり、秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが当社の発祥であるともいわれている。
当地に鎮座して以来、朝廷をはじめ、鎌倉将軍家、今川、武田、織田、豊臣、徳川など各氏の尊崇厚い。ことに徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として駿河国に預けられていたことから、生涯に渡って当社を篤く崇敬し社殿の再建をおこない、当社はその後歴代将軍の祈願所となっている。
神部神社の由緒
駿河国開拓の祖神といわれる大己貴命 (おおなむちのみこと) を祀る。2100年ほど前、崇神天皇の時代の鎮座と伝えられる。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた。
浅間神社の由緒
富士山を神体山として崇める浅間神社の一社。「あさま」とは火山を表した古語と考えられている。延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきた。木之花咲耶姫命 (このはなのさくやひめのみこと)をご祭神とする。
神部・浅間両神社の建築
大歳御祖神社の由緒と建築
神大市比売命を指すといわれる大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)をご祭神として祀る。 約1700年前の応神天皇の時代の鎮座と伝えられ、元々は古代、安倍川河畔の市場であった安倍の市の守護神であった。古くは「奈古屋神社」と称された。
手前より神門、拝殿、唐門、本殿を望む。本殿は重文で、天保7年(1836)竣工の三間社流造で比較的簡素なたたずまいであるが、組物・彫刻には極彩色をほどこす。
境内社
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麓山神社(はやまじんじゃ)
主神に大山祇命、日本武尊を配祀。古来より賎機山上に鎮座し、俗に山宮と称する。浅間神社の別宮とされ、社殿は本殿・拝殿・唐門・透塀をそなえ、三本社と同規模の壮麗な建築で、細部に立川流の彫刻を置き、漆塗り極彩色。本殿は、天保5年(1834)竣工で三間社流造。
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八千戈神社(やちほこじんじゃ)
- 主神に八千戈命(大国主命)、相殿に明治以降合祭された18社13柱の神々を祀る。徳川家康の念持仏であった摩利支天像を安置するために造営されたもので、摩利支天社と称し、徳川幕府がとくに崇敬を尽くし、社殿も本社に次いで造営され入母屋造銅瓦葺で、朱塗極彩色を施す壮麗なものである。明治の神仏分離に際して、八千戈神社となった。
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少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)
- 主神に少彦名命を祀る。もと神宮寺薬師社と称し、薬師如来・十二神将を安置していた。明治の神仏分離に際して、少彦名神社となった。古来医薬の神として薬業関係者や病気平癒を祈る人々の参詣に訪れる。入母屋造銅瓦葺で、極彩色を施し、蟇股には立川流干支彫刻がつけられている。
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玉鉾神社(たまほこじんじゃ)
祭神は江戸時代の国学の四大人。明治9年(1876)、静岡県内の神職が官許を得て創祀された神社。受験・学問の神と仰がれている。