釈迦如来の清涼寺

金澤成保 

 

 

 大覚寺を後に南西に10分ほど歩くと、浄土宗の古刹・清涼寺の門前にでる。この寺院は、嵯峨釈迦堂ともよばれているが、もとは『源氏物語』の光源氏のモデルとされる源融(みなもとのとおる)の別荘だったところで、源融が亡くなると阿弥陀三尊像が安置されて寺となり、名も「棲霞寺」(せいかじ)と改められた。それから半世紀ほど後の天慶8年(945)、重明親王が亡き妻のために棲霞寺の境内にお堂を建て、そこに釈迦如来像を安置したことから、「釈迦堂」とよばれるようになった。

 

 

 

 その後、宋の五台山を巡礼した東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が、永延1年(987)に帰国すると、京都の愛宕山を宋の五台山に見立て、寺院を建立しようとしたが、その志を果たせず亡くなった。その遺志を弟子・盛算(じょうさん)が継ぎ、長和5年(1016)に棲霞寺の境内に清凉寺を創建した。この時、本尊として安置したのが、奝然が中国から持ち帰った「釈迦如来立像」である。

 

 この釈迦像は、釈迦が37歳の時の姿だといわれているが、インドから中国、そして日本に渡ってきたことから「三国伝来の生釈迦」とよばれ、日本三大如来のひとつに数えられている。像の体内からは、絹でつくられた五臓六腑の模型と、顔の額の部分に銀の仏像、眼には黒水晶、耳には水晶がはめ込まれ、像の霊魂として水月観音が彫られた鏡が入れられていた(釈迦如来立像の写真と文章の多くは「Ayame*Aoiの幸福ブログ」を参照させてもらった)。

 

 

 境内南端の仁王門は、天明4年(1784)の再建で、仁王は長享年間(1487 - 1489)の作とされる。本堂(釈迦堂)は、 徳川綱吉と桂昌院の発願で、住友吉左衛門によって元禄14年(1701)に再建された。本尊である釈迦如来立像「生身の釈迦」(国宝)を祀っている。阿弥陀堂は、 文久3年(1863)の再建。聖徳太子像などを安置する。かつては旧棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像(国宝)などを祀っていた。本堂の裏に、江戸時代後期の作とされる弁天堂が、唐破風屋根を正面につけて建っている。

 

 

 

 

 

 大方丈は、 享保年間(1716 - 1735)の再建。以前のものは徳川家康と英勝院によって夭折した息女一照院の位牌所として寄進されたもの。方丈前庭は、小堀遠州の作庭とされる。一切経蔵は、明治18年(1885)の再建で明版の一切経を納め、正面に傅大士(ふだいし)父子像を安置する。八宗論池は、空海(弘法大師)がこの池の畔で南都八宗の学問僧らを論破したと伝わる。

 

 

 

 薬師堂は、嵯峨天皇の勅により薬師如来像が奉安された名残という。隣接して薬師寺がある。澄泉閣は、 大阪天王寺にあった住友家本邸にあった建物を移築したもの。狂言堂では、定期公演が開かれ、嵯峨大念仏狂言が奉納される。鐘楼には、「嵯峨十景・五台の晨鐘」と呼ばれてきた梵鐘が吊られている。足利義政・日野富子・足利義尚の名と文明16年(1484)の日付が刻まれている。

 

 境内にはそのほか、愛宕権現社が仁王門を入った東に建つ。神仏習合時代の名残で、かつて同寺が愛宕山白雲寺(現・愛宕神社)の山下別当寺であった歴史を今に伝えている。多宝塔は、法華経に由来する建物で、 江戸護国寺での出開帳の際に寄進され、3年後の元禄16年(1703)に船で運ばれ再建された。その奥に法隆寺の夢殿を模した八角殿の聖徳太子殿が建つ。大坂城三の丸跡地からでた豊臣秀頼公の首塚が本堂の横にある。