旧御所の雅な大覚寺

金澤成保 

 

 

 車折神社駅からふたたび嵐電に乗り、嵐電嵯峨でおりる。そこから住宅地を北に20分ほど歩くと、大覚寺の門前にでる。真言宗大覚寺派の本山で、正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門跡」といい、旧御所である。

 

 

 

お堂エリア

 宮廷風の建築や皇室ゆかりの建物を移築したものがおおく、室内は狩野派などの襖絵で飾られ、大沢池のおおらかな姿ともあいまって、寺というより御所華やかな雰囲気があり、心地がいい。以前は皇室の出家者が住職をつとめる門跡寺院であった。

 

 平安時代初期の嵯峨天皇が、この地に離宮を営んでいた。空海が、離宮内に五覚院を建てたのがそもそもの起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876)、正子内親王、後の淳和天皇皇后が、離宮を寺に改めたのが大覚寺である。延元元年(1336)の大火や、応仁の乱(1468)によりほとんどの建物が焼失したが、寛永年間(1624- 1644)には、ほぼ寺観が整えられたといわれる。

 

 

 

 表門をぬけ、参拝口をあがると(参拝料:お堂エリア500円、大沢池エリア300円)、大玄関である式台玄関にでる。狩野派の華やかな襖絵と、法皇が乗ったといわれる御輿(みこし)がでむかえる。次の建物は、住職が公式行事をおこなった宸殿で、御所の「紫宸殿」とおなじく「」とは皇帝の意味である。江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造の建物。天皇家に嫁がれた徳川二代将軍秀忠の娘・和子が、御殿として使用していたもの。天井などに装飾がこらされ、正面には御所の名残りとして右近の橘左近の梅を配している。窓には寝殿造の蔀戸(しとみど)が使われ、蝉の飾りは精巧なつくりとなっている。

 

 

 

 

 宸殿の裏には、正寝殿がある。ここでは後宇多天皇が院政を執っていただけでなく、南朝・北朝の会議がおこなわれた歴史上重要な建物である。残念ながら非公開。渡り回廊の村雨の廊下をわたる。防犯のため天井は低くして刀を使いにくくし、床は足音のする鶯張り(うぐいすばり)となっている。

 

 

 

 

 東にすすむと、心経前殿(御影堂)に入る。大正天皇即位に建てられた饗宴殿を移築したもの。心経殿の前殿にあたるため「心経前殿」と呼ばれ、大覚寺の歴史上とくに重要な嵯峨天皇、弘法大師、後宇多法皇、恒寂入道親王の尊像をお祀りするため「御影堂」ともよばれる。背後に、天皇直筆の般若心経を奉納した八角堂の勅封心経殿がある。正面に白砂をはさんで勅使門がある。唐破風が漆塗り、鍍金(ときん)飾りで、勅使や門跡のみが使う秀麗豪華な門である。この勅使門石舞台心経前殿、そして心経殿が、南北に一直線でならんでいる。

 

 

 

 

 後水尾天皇を祀る安井堂(御霊殿)をこえると南に、本堂である五大堂にでる。不動明王を中心に五大明王を祀る。大沢池のほとりに位置し、両脇各2間は蔀戸となっている。大沢池に面する東面には池に張り出すように観月台(濡れ縁)があり、大沢池の眺望がすばらしい。

 

 

大沢池エリア

 お堂エリアをでると、眼前に1万坪といわれる日本最古の庭池・大沢池が広がる。唐の洞庭湖を模してつくられた人工池で、中秋の名月には嵯峨天皇の舟遊びをかたどった「観月の夕べ」がおこなわわれる。植物を多用せず、湖面のまわりに視野を広げることに重点があり、王朝文化をしのばせる、明るくのびのびしたおおらかな庭園となっている。

 北西には五社明神、大日堂、聖天堂、蓮華殿、石仏群にくわえ、朱塗りの心経宝塔が建っている。宝塔は、昭和42年(1967)の建立で「如意宝珠」と弘法大師像が祀られている。

 

 

 

 

 池の北東には、藤原公任作の小倉百人一首「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」の歌で知られる名古曽(なこそ)の滝跡がある。池の北端には天神島御神木菊ヶ島庭湖石がいろどりをくわえている。

 

 

 

 

 撮影所のある太秦が近くということもあり、寺の境内は、時代劇の映画やテレビなどの撮影によく使われている。お参りした当日も、撮影の準備をしていた。