蒸し蒸しした水曜日です。

雨が降ったり止んだりしてますが、午後からはかなり降るとか。

梅雨は遅れて来たくせに、なんだか悪びれもせずに自己主張してます。


お昼のNHKニュースの一番最初の話は、どっかの高等裁判所で、性自認が女性である50歳未満の男性の性器を手術して女性のそれに近いようにするのは違憲だ、という判決を出したというものでした。


おやおやと思い、ヤフーニュースを見てみたら、①ホルモン療法の結果、この男性の性器は手術後のそれと類似した形態になっている、②生殖能力を奪うことは違憲である、とのことから、この申し立てに関しては上記のような判断をした、とありました。


多分、②の方がこの判決の根拠としては大きいのかな?と思います。

こないだから、強制的に不妊手術を受けさせられた人たちに国家賠償が認められてますし。


私は学生時代に法学の授業が大嫌いで、講義の間、教授の似顔絵を描いていた人なので、全くの素人なのですが、叱られることを前提に申し上げると、

a.自らの性自認は女性である生物学的には男性の身体を持った人がいたら、b.その人の生殖細胞は精子であり、c.いくら法律的に女性だと認められても、当該者が子をなそうとするときは、イ.自分の精子を誰かから譲り受けた卵子に受精させれば男性として機能したことになるし、ロ.相手方の精子を同様に譲り受けた卵子に受精させたとしたら、当該人物は生殖には関わらなかったことになり、潜在的に持った造精能力は無駄になる、という矛盾が出てくると思うのですがどんなもんでしょうか?

つまり、造精能力残しておいても男性として機能しえないわけだから、この性自認女性の方に、身体の中に矛盾を抱えながら生きることを、この判決は課していることになりませんかね?


ここまで書いたらもう少し調べないといけないかなと思い直して、たまには新聞読むかと今朝(木曜日)の朝日新聞を眺めてみました。

3面にこれまでの経緯が載ってました。



WHOにはICDという精神科疾患の診断基準があるのですが、ICD-10(1992)までは「性同一性障害」が残り、アメリカ精神医学界の基準であるDSM-Ⅳ(2000年)にもトランスジェンダーは精神疾患の一部として括られていたはずです。

個人的に「トランスジェンダー」という言葉を知ったのは1990年に至文堂が出版する現代のエスプリが「トランスジェンダー」をテーマにしたのを読んだのが初めてかもしれません。

トランスジェンダーの流れの広まりの始まりは概ねベルリンの壁の崩壊や東西冷戦の終結(現実にはその後復活しましたが)などと時期的には重なると言えそうな気もします。グローバリゼーションの始まりと重なるのかな。世界のダイバーシティ化の一つとして「硬直した視点の解体」が始まったなかに「トランスジェンダー」め含まれてたんだと思います。

その結果、ICD-11(2019)では「性別不合」の概念が採用され、「性障害」の括りからは外されることになり、同様にDSM-5(2014)では「性別違和」となり、病理性が薄らいでいるようです。

そのような意味ではまさに「性別」に関する旧い視点のアップデートが求められているわけですが、このままどこまでアップデートが計られて行くんだろうと心配にもならないわけではありません。

昭和の60年くらいまではおじさんが親しみを表現する(一方的な)手段として、若い女性の肩をもんだりするのは割りと普通でした(たとえそこに多少なりともおじさんのスケベ心が混じっていたとしても、なんとか許容されていたように個人的には思います)。しかしら今はそんなことをしようものならセクハラ!と言われ、なかには訴えられて慰謝料まで取られるケースもあります(多分)。
「本人の同意なく触られて不快であった」という「意志」と「不快感」がその根拠になっています。

ICD-11の性的不合項目の最初には、1次ないしは2次性徴に対する「強い嫌悪ないしは強い不快感」があることがあげられているので、なんだか上のハラスメントの考え方に微妙に共通するところもあるように思えます。

極めて大雑把な言い方をすると、90年代以降、世界は「人生から自分の意志で嫌悪感や不快感を排除」する方向で動いて来たように思えます。

そのような視点からすれば、この判決に反対しているひとたちが、たとえば「女湯にそれとははっきりは分からないが、よく見る(まじまじ見るなよ)と男性器に見えるかもしれない性器を持った人が入ってくるのは不安で不快だ」といって主張する「不快感」も認められなきゃおかしいということになりますよね。

これに対応するためには、今回の判決を引き出した当事者が女湯に入ろうとする際には(その機会があるかどうかはしりませんが)「私はトランスジェンダー女性ですが、私が皆さんと入浴するにあたって、皆さんは不快に感じたりはしませんか?」とかいちいち聞く必要がでてきてしまうのではないでしょうか?

なんだかそれもむごい話ですよね。
私の(意志の)存在が不快なのか?私の性器のありようが不快なのか?
それだけで話は大きく変わってしまいます。

いや、世間が変わって、トランスジェンダーの人を「よくやった」「素晴らしい」と手を叩いて歓迎するくらいになってるなら別ですが、現状はそこまで行ってないのではないかと思ってしまいます。

そんなわけで、何が言いたいのかというと、昭和20年代に産まれ、それなりの苦労も体験し、「人生で苦労は肥やしになる」
とか言われながら高齢化してしまった身としては、最近の世の中は「意志優位に見える快感優位」で動いているように見えてしまい、それは発達的には結構初期の課題である「不快に耐える」という問題を都合よく避けようとしてるんではないかな?とか思ってしまうこともある、ということです。

昔、ウィニコットという精神分析学者が「グッドイナフ(マザー)」という言葉を提唱しましたが、good enoughという言葉に含まれるグレーゾーンを含む大らかさと不快に耐える力が最近の社会には欠けてるんでないかな〜と一人つぶやく木曜の午後でした。




プランターに勝手にネジ花が一本咲きました。