金曜日の地方版の「方言講座」を見ていたら、とても懐かしいことばに出会いました。




普段はジムにいる時間なのでなかなかこの番組はみれないのですが、たまたまサボったこの日は見ることができました。


そこで紹介されていたのが「あぶらっこ」という単語です。

東北出身ではない女子アナ(重信さん)には意味が分からなかったようですが、元福島県民である我が身にはよく分かる懐かしいことばです。

「何をやっても、おらはいっつもちゃんとした資格者とはみとめられないけど、まあ混ぜてもらえたモラトリアム」といったような意味ですかね。


あぶらっこ、とかあぶらしこ、と呼んだような記憶があります。


子どもたちが集団でゲームをして遊ぶ際に、まだ年が小さくて他の年長児に比してゲームの理解力や対応能力に十分さが欠けると判断された場合、その年少児はゲームには入れてもらえるけれど、得点やアウトには加算されないという昭和のルールでした。


大体3歳以下の子供がたとえばドッジボールとかに「入りたい!」と意志表示をした時に年長児が「いいけど、あぶらっこな」と念押ししてから参加を認めるというパターンです。


当時は子供の数が多くて、しかも今みたいに隣との境界とかうるさくもなんともなかった時代でしたから、誰かんちの庭でそのへんの子供が集まって遊ぶわけです。


兄や姉たちは当然、弟妹たちの面倒をみるように言われてるわけですから、面倒見ずに自分たちだけ遊ぶのは気が引ける。

だったら、勝ち負けにかかわらないように、年少児をゲームに入れてやれば、自分たちも面倒をみたことになり、年少児たちも「遊べる」。


今考えると、しみじみ良い方法だったと思います。

あぶらっこにしてみれば、自分が勝敗に関われないのはつまらなかったとは思いますが、でもゲームのスキルやルールを学ぶ機会にはなったわけだし。

しかも、年長児たちはあぶらっこにはドッジボールの玉をぶつけないようにする優しさもありました。


今の時代にはこんな習慣はもうないですよね。大体、外でドッジボールしてる子どもたちとか見たことないし。


話は変わりますが、こないだ小学校とかで集団行動させるのは軍隊教育の名残だ、という指摘をしてる社会学者がいました。それはそうだとは思いますが、人間はその年齢のどこかで「集団」に触れてないとのちのち困るんでないかな〜とも思いました。


社会で生きていく最低のルールを学習するには社会集団に属してないとダメなわけです。

現在の学校、特に小学校や中学校が「集団ルール」を獲得する場になってないのは、子どもたちが進んで「自分の帰属する集団」という帰属意識を持てないまま、学校にいる時間を退屈に過ごしているからではないですかね。


昭和の時代には昔からの遊び仲間が学校にいたから、学校は「生活の延長」だったし、生活の場だったから、挨拶とか掃除とかしたんだと思います。それは軍隊教育の結果ではなくて、自分の居場所を大事にすることの表現だったんだと思います。


個人の権利が(過剰に?)重視されてる現代では、一人ひとりの独立した居場所としての学校が強調されますが、「遊び仲間といる学校」という視点が再強調されれば、「唯我独尊」ではなく、仲間を大切にルールも大切に、という視点も育ちそうな気もします。


知識だけ追求する教育しても、やがてはAIに負けるんだから、義務教育くらいは仲間意識を作り、友達と楽しく競えるような体験を増やした方が良さげに思うのは、昭和産まれの懐古趣味なんですかね?





たまに夜の写真です。