最近、老眼の進展により文字を読むのはスマホの短いニュースと、あとは週刊新潮(文春はスマホで)くらいという情けない日々を送っています。

その週刊新潮今週号の書評欄に、「窪 美澄 ふがいない僕は空を見た」という2010年に刊行された本の小橋めぐみさんという俳優さんによる書評が載っており、なにげなくそれを読んだらすごく面白そうなので、木曜日にポチッて、金曜日にアマゾンから届いたのでその日のうちにあっという間に読み終わりました。



この5話が互いに入り組み合いながら展開していきます。


最初のミクマリは初めから予想もしない急速な始まりで、えっ、この本、ポルノ小説なの?と焦りますが、その具体的な描写がなんだかやたらと的確に思えて息を詰めて読んでしまいます。


主人公はシングルマザーである助産師さんの高校生の息子です。

この男の子が初めての性体験を持つことになる相手が、次の「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」で細かく語られることになるかなり難しい生育歴と現況を持つあんずという名もある女性です。


この主人公の男子高校生はなかなかのイケメンらしく、彼を慕い、彼とセックスしたいと乞い願う女子高校生もいるのですが、彼とあんずとの関係がめちゃくちゃな展開になり、高校生くんは打ちのめされて引きこもりになります。


あんまりネタバレさせると良くないのでやめますが、とにかく、この話には心に傷?のある人たちがたくさん出てきます。

東大の理三に受かってるのに訳のわからない新興宗教にハマってしまった(主人公のガールフレンドの)兄とか、優秀な塾の講師なんだけど小児性愛の傾向があることで社会から排除されつつある青年とか。


それこそ、読み進むうちになんでこうなってしまうんだ?!と叫びたくなるような感じで道を踏み外している人たちがてんこ盛りに近くいます。


個人的にいつもは文庫本の終わりに書いてある解説はあまり読まないようにしているのですが、昨日はついつい読んでしまいました。

そしたら、この本を読み終わったばかりの私が、「あっ、そうかも」と思ってしまい、その視点から今日もまだ離れられない解説がありました。


それは、評者が「性にまつわるもろもろを、窪 美澄さんは〈やっかいなもの〉〈オプション〉という言い方で描く。それはすなわち、自分でも持て余してしまう「過剰」ということである。」と書いたことです。


これは確かに腑に落ちます。

この物語は確かに「性」を物語の中心にしているけれど、全ての性的イベントはそれぞれの人生に厄介をもたらすきっかけになってます。

そして、その厄介さは確かに個々人の中にある何らかの過剰さが、たまたま性的な表現型を採用したからこそうみだされた、と見ることもできます。

あるいは性行為そのものはいわば溢れ出る命のエネルギーの発露でもあるわけですから既に日常からは逸脱した出来事であり、つまり始めから「厄介さ」を含んでいます。


とはいえ、その厄介さの源でもある性行動なしには人は生まれもしないし、死にもしない。

人生に必要不可欠なのが性なんだけど、その人の対人関係のありようが直接反映されるから、時として、というかしばしば厄介なものごとを引き起こしうる、と言えばよいのかしら?


今から14年前に出たこの本は、たしかに「日常からの逸脱を嫌う≒日常性を維持する生き方を強制する社会風潮」が強くなったこの国で、「性に対する忌避感」も同時に強まったことを説明できるようにも思えます。


性に代表される非日常性(社会規範からの逸脱)は、①当事者双方を潜在的に傷つけうるし、②特に弱い立場の人を傷つけやすく、③万一その性行為が相手の同意なしに行われればそれは「犯罪」として処罰の対象になり、④それらは結局、その性行為の口火を切った首謀者にかなりの不利益をもたらしかねないことから、「厄介でめんどくさいもの」と認識されるようになったのではないですかね?

もちろん、著者はそんな意味で「厄介」なものと言ってはいないのですが。


アメノウズメの時代は性は寿ぎの対象であったものが、現代では日常的な対人関係や社会秩序を乱す「過剰」として捉えられるようになった。


とはいえ、主人公の母親が助産師であり、たくさんの感動的な出産シーンもまた描かれていることから、当たり前だけど「性」には両面があるよ、忘れないで、と言ってるようにもみえます。


残念ながらまだ私の中でちゃんと言語化できるほど煮詰まってませんが、久々に引き込まれるようにして読むことができた面白い小説でした。


解説、読まなきゃよかったと、後悔してます。



不思議な形の雲が浮かんでました。